人生の目的は神様の中にある
これまで人生の目的は私たちの中にではなく、神様の中にあるのだから、神様の願いを求めることが大切だと書いてきました。そして、全ての人に共通していることは正しく生きることだということも書いてきました。
私個人に関する神様の願いとは
それでもまだずいぶん範囲が広いですね。正しいことであれば何でもやったら良いと私は思いますが、特別に自分に対する個人的な神様の願い、人生の目的をどのように見極めたら良いのかということについて今日は書いてみたいと思います。
やってみたいことは何ですか
繰り返しになりますが、まず私は正しいことであれば、何でも好きなことをやったら良いのではないかと思っています。これ以外は駄目というものでもないと思っています。では、何が好きなのでしょうか。何をやってみたいでしょうか。そういうものがたくさんある人もいれば、やりたいことが分からないという人もいるかもしれません。
祈ること
神様の願いを祈り求めることが大切ではないでしょうか。神様の願いに適う、有益な人生を送りたい。神様どうぞ教えてください。毎日、そう祈ることが大切だと思います。
いろいろやってみること
いろいろやってみることが大切だと思います。どんなことに情熱を感じるでしょうか。何が長続きするでしょうか。初めから天才的な能力を発揮する人もいるかもしれませんが、多くの場合、長く一つのことに取り組むことによって、熟達して行くのではないかと私は思います。そのための情熱は神様から来るものではないかと思います。
職業の選択
多くの場合、職業には人生の多くの時間を割くことになると思いますので、人生の目的と職業の選択は関連が深いのではないかと思います。でも、私のように神様を中心とした生き方を伝えるという仕事では収入を得ることができませんので、それ以外に収入を得るための職業を持つこともあり得ることだと思います。
主婦も神様の仕事
また、主婦として家族を支えるという仕事でも収入を得ることはできませんが、これも神様の仕事であり、人生の目的となると思います。必ずしも収入を得ることができる仕事だけが神様の仕事とは言えないと思います。
人の益となる
いずれにしても、そのような仕事や働きを通して、人々に貢献し、家族を支え、社会や国家を形成する一翼を担うこと、自分のためではなく、人の益となるということが大切だと思います。一人ひとりが神様のためという動機を持ち、全体の一翼を担うということ、それが「神の国」ではないかと思います。
常識と良識を持った社会の形成者となる
神様を中心に個人的な人生の目的を考えるとは、決して何か宗教的な生活をするとか、神秘的な生活をするということではなく、極めて常識と良識を持った社会の形成者となるということだと思います。そこには自分のことしか考えていない人には味わうことのできない喜びがあると思います。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様を中心にした生き方について考えてみましょう。
新約聖書 使徒の働き 9章1~9節
さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
的外れな人生の目的
サウロという人はイエスの弟子たちを捕らえ、撲滅することこそ人生の使命と考えていたようです。でも、たとえどんな理由があったとしても、自分の主義主張と違うからと言って、人を殺すことが神様の喜ばれることであるはずがないと私は思います。ましてや、殺害の意に燃えてと書かれていますが、その根底にあったのは憎しみではないでしょうか。それは決して神様から与えられる願いや思いではないと私は思います。
主との出会い
そのサウロにとても不思議な出来事が起こります。文字通りこのようなことがあったのかどうか私には分かりませんが、やはりサウロが自分で悟ったということではなく、主であるイエスから、サウロがしていることは主であるイエスを迫害していることだと示されたという出来事ではないでしょうか。そして、この方があなたのなすべきこと、つまり人生の目的を与えると言われます。それを受け入れるのか、それとも敵対し続けるのか、それによって私たちの人生は大きく変わってしまうのではないでしょうか。
潔く向きを変える
たとえ今までの人生がどうであったとしても、それが神様に敵対している生き方であったと気が付いたなら、潔く向きを変えて、神様を中心にすることが大切ではないでしょうか。神様に背を向け続けるなら、それは結局自分の人生に災いを招くことになってしまうと思います。良心に語り掛けられる主の声に耳を傾けましょう。