結婚したら「一人の女性」しか愛せなくなる?そんなことはありません

こんなタイトルの記事を見つけて、びっくりしました。結婚しなければ、多くの女性を愛することができると考える男性がいるのでしょうか。結婚は年貢の納め時なんて言い方もすることから考えれば、むしろそれが一般的な考え方なのでしょうか。まずはこの記事をご紹介いたします。

結婚しても一人の人しか愛せなくなってしまう訳ではない?

結婚になかなか踏み切れない原因の一つに、「これから先、一人の人しか愛せなくなってしまう」 という不安がある。しかし、起業家で執筆家のデール・パートリッジは「結婚したら一人の人しか愛せない」とは思っていない。

彼は11月4日、結婚したら一人の女性しか愛せなくなると不安を感じている男性に向けて、「違った角度からの結婚を捉える」ようFacebookに投稿した。

「男性は結婚すると、残りの人生は一人の女性としか過ごせなくなると心配しますが、それは違います」

「私は、19歳のロッククライマーに恋をし、20歳の動物が大好きな女性と結婚し、24歳の母親と家族をつくり、25歳の主婦と農場を始めました。そして今、深い知恵を持った賢い女性と結婚しています」

「健全な心を持っていれば、『一人の女性』に飽きることはありません。むしろ、何年も結婚している女性に、これほど多くの美しいバージョンがあるという事実に、圧倒されるでしょう」

パートリッジの投稿は多くの人たちの共感を集め、現段階で65万人以上がいいね!し、28万人以上がシェアしている。中には、コメント欄に自分の経験を書き込んでいる人たちもいる。

ケリー・マーティンは自分の妻について、こう書いている。

「一人の女性と結婚して40年以上になるけど、どうしてそれ以上の女性が必要だなんて思うんだろう。振り返ってみても、私が愛し必要としているのは、彼女だけしかいない」

また、バリー・サドラーは「一人の女性としか過ごせなくなるなんて心配を、男性はしなくてもいい。そんなことを心配するうちは、まだ大人になれていないんだ。心から大切にできる女性、敬意を抱ける女性は、人生の最大の贈り物だ。 存在だけで誰かを幸せにできるということほど、価値のあることはない」と綴っている。

安心しました

そういうことだったんですね。私はこのような結婚を神様は喜ばれるだろう、つまり、これこそ深い喜びを味わうことのできる結婚だろうと思いましたのでご紹介させていただきました。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様の喜びとなる人生について考えてみたいと思います。

新約聖書 使徒の働き 8章26~40節

ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。) そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤの女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官(かんがん)のエチオピヤ人がいた。

彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。御霊(みたま)がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。

そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。

そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。

「ほふり場に連れて行かれる羊のように、
また、黙々として
毛を刈る者の前に立つ小羊のように、
彼は口を開かなかった。
彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。
彼の時代のことを、だれが話すことができようか。
彼のいのちは地上から取り去られたのである。

宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。

道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。

水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。それからピリポはアゾトに現れ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

ユダヤ教徒のエチオピヤ人が神様を中心とするようになった

これも不思議な出来事ですが、詳細はともかく、ユダヤ教を信奉するエチオピヤ人の宦官がエルサレム神殿に参拝に来て、その帰りに旧約聖書のイザヤ書を読んでいましたが、それは人となった神様であるイエスが十字架について、私たちの身代わりに死んでくれたことを言っていると分かり、イエスの弟子となるバプテスマ(洗礼)を受けたという出来事だと思います。

広がって行く神様を中心とした生き方

このようにして、単にユダヤ教の慣習に従った生活をするということではなく、イエスを通して、神様を中心とした生き方をするようになる人がどんどん広がって行ったということだと思います。ペテロを筆頭とする使徒たちは依然としてエルサレムにいましたが、それ以外の弟子たちは迫害によってエルサレムから散らされて、様々な地方を巡り歩き、神様を中心とした生き方にこそ救いがあるという福音(良い知らせ)を伝えて行ったということだと思います。