幼児にも良心はある
2歳、3歳の幼児でも、人間には皆、良心がありますので、善悪の判断をすることができると思います。たとえば、親が「やめなさい」と言っているのに、子供がその行動を止めようとしない時、子供は親の言う事を聞かないことはいけない事だと分かっていないのではなく、分かっているけれども、止めないということだと思います。「やめなさいと言っているのに、やだって言ってやめない事は良い事ですか。」と聞いてみてください。首を横に振って、「いけないことです。」と答えるか、逃げようとする子供もいるかもしれません。それが悪い事だと分かっている証拠だと思います。
子供の心を育てるとは
どんな子供でも(大人でも?)、自分がしたいことを、したい時にしたいものだと思います。それが良い事であるなら、すべきだと思います。しかし、それが悪い事であるなら、いくらやりたくてもやってはいけないと思います。それを判断するのは良心だと思いますが、この良心に従って行動できるようにすることが心を育てることだと思います。つまり、好き嫌いではなく、善悪で行動できるようにすることだと思います。
騙し騙しでは育たない
ですから、子供の気になる言動がある時、騙し騙しその言動を別の方向へ持って行ったとしても心は育たちません。また、それを止めたら、何か買ってあげるというような取り引きでも心は育ちません。また怒鳴りつけたり、冷たくしても、その行動を止めさせることはできるかもしれませんが、心は育ちません。どうしたら子供の心を育てることができるでしょうか。
まっすぐに教える
それは難しいテクニックではありません。子供に悪い事をしないこと。良い事をすることをまっすぐに教えることだと思います。そして、悪い言動があった時に、例外なく、一貫して子供と向き合い、それを止めさせ、「それは良い事ですか」と子供の良心に話しかけることが大切だと思います。
子供を励ます
大人でもそうですが、自己中心ではなく、善悪に従って行動することは簡単ではないこともあります。ですから、そのことを良く分かってあげて、子供を励ますことが大切だと思います。できた時には子供をたくさんほめてあげることも大切です。それによって子供の良心は強くなって行くと思います。
それは神様を中心とした生き方
それは自己中心ではなく、神様を中心とした生き方です。子供達の幸せはそこにあると思います。どうぞ子供が小さい内から、その良心を強め、自己中心の誘惑を退け、神様を中心にして生きることができるようにしてあげてください。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様を中心にして生きましょう。
新約聖書 使徒の働き 8章14~25節
さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
彼らは主イエスの御名(みな)によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。
ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。
だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」
シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」
このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。
サマリヤの人々が神のことばを受け入れた
サマリヤ人とは北イスラエルの人々ですが、アッシリヤ人との結婚により、南ユダの人々からは、ユダヤ人の血の純潔を汚したと蔑まれていました。そのサマリヤの人々が神のことばを受け入れました。この「神のことば」とは何を指しているのか、具体的に書かれていないので分かりませんが、イエスがメシヤだということかもしれません。
御霊が与えられた
エルサレムからペテロとヨハネが来て、聖霊を受けるように祈ったとあります。二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けたとあります。どうやって、それが分かったのでしょうか。使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのをシモンは見たとありますから、それは見て分かるような現象が起こったのかもしれません。
誰でも神様の霊を受けることができる
いずれにしても、南ユダの人々が蔑んでいたサマリヤ人もユダヤ教ではなく、神様を中心にし、神様の霊を受けて生きるようになったということだと思います。神様の霊はいつでも、どこにでも、また誰に対しても働いているのではないかと私は思います。自己中心を改め、神様を中心にするなら、神様の霊の働きを受けることができるようになるのではないでしょうか。
それが私の体験です
神様を中心とした生き方とは、単なる考え方の問題ではないと思います。心の向きを変える時に、私の内に生きて働く神様の力だと思います。それは何かの宗教の信者になることではありません。どうぞ霊的な存在である神様を心の中心にお迎えください。