彼女のことは好きなのに、結婚を心が拒絶してしまう。今、結婚話が進行中で、大変悩んでいるという29歳男性の相談です。これに対して、その回答が参考になりましたのでご紹介します。
どうして結婚が嫌なのか、自分で理解することが必要なのかもしれません
責任を負うのが嫌だと思っている?
家庭を築いていく自信がない?
束縛されるのが嫌だ?
「結婚=不幸せ」というイメージを無意識にも持っている?
彼女のことは、本当は好きではない?
結婚生活は、夫妻で支え合いながら、お互いに人として成長しあって、自分たちの幸せを一緒に考え、それに向かって進んでいくことで充実感や幸せな気持ちが生まれるものです。だから、多少の自信のなさというのは、お互いに理解しあえれば、二人の心次第でなんとかなるものです。
また、周囲の不幸せな結婚を見て、結婚にマイナスのイメージをもってしまい、「自分も同じ失敗をしてしまうのではないか・・・」と無意識に思っていれば、結婚から逃げたくなるような気持ちがわいてきても、不思議ではありません。でも、「結婚しても、幸せにはなれない」というのは思い込みです。その場合は、結婚へのイメージを自分で変えていく努力が必要になるかもしれません。
それでも混乱する場合は、あなたは彼女を幸せにしたいと思えるのか、自分は将来どういう風になりたいのか、心に問いかけてみることです。結婚の大前提として、「相手を大切に思う心」が大事になります。彼女を自分が幸せにしたいと思えるならば、勇気をもって結婚へ進んでいってみてはいかがでしょうか。(サイトからの引用は以上です。)
何のために結婚するのか
このブログでもお伝えしているように、結婚の目的を知ることが大切だと思います。何のために結婚するのでしょうか。それはどんな人生を送りたいと考えているのかということと関連すると思います。その時に、単に自分の思いではなく、神様の思いや願いを中心に考えることが大切だと思います。今一度、人生の目的について考えてみると良いのではないかと思いました。
人を幸せにする人生
また、自分のことではなく、人を幸せにすることを考えることが大切だと思います。結婚も、人生も、ただ自分の欲求の満足のためであるなら、きっと失望することになると思います。人を幸せにすること、それは人生の大きな目的の一つであり、自分の人生にも深い満足を与えるものだと思います。
神様を愛し、人を愛して生きる
相手の方の幸せのために自分ができることをしてあげたい。それは結婚の大きな目的になるのではないかと思います。この結婚に関する相談サイトの回答にはいつも納得させられます。参考にしてみてください。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。
新約聖書 使徒の働き 17章1~9節
彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。パウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。
そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」と言った。
彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシヤ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。
ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した。しかし、見つからないので、ヤソンと兄弟たちの幾人かを、町の役人たちのところへひっぱって行き、大声でこう言った。
「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます。それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしているのです。」
こうして、それを聞いた群衆と町の役人たちとを不安に陥れた。彼らは、ヤソンとそのほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。
まずユダヤ人にという原則
先週、アーノルド・フルクテンバウムというメシアニック・ジュー(イエスをメシアとして受け入れるユダヤ人)の方の本を読み、聖書について多くの新しい示唆を受けました。その一つに、パウロは異邦人の使徒であることを自認していましたが、いつもまずユダヤ人に話し、異邦人はその後であるという指摘がありました。
聖書の信仰はユダヤ人から
今日の聖書箇所を見ても、確かにパウロはそのようにしていることが分かります。今日の箇所にはパウロがどんな話をしたのかも書かれています。イエスがメシヤであることを聖書から説明したようですが、それはまずユダヤ人に話すべき内容だということだと思います。
異邦人はユダヤ人から聞いた
考えてみれば、旧約聖書はもちろん、神様のこと、人間の罪のこと、罪の赦しのこと、神様を中心にして生きること、それらは本来キリスト教の話でなく、もともと神様がユダヤ人を選んで伝えた内容であって、ユダヤ人でない人はユダヤ人から聞いたということだと思います。
日本人の信仰
この日本には太古の昔に、すでにユダヤ系の人々によって、そのことが伝えられ、日本人の信仰、文化、伝統はその上に発展してきたと私は思っています。だから、日本人は西欧で発展してきた異邦人のキリスト教から学ぶことは何もないとは思いませんが、それを全て受け入れなければならないということはないと私は思います。
日本人として聖書を読む
もちろん、日本人であれば、いつも神様を中心として生きているかと言われれば、必ずしもそうではない現状があると思います。でも、無批判にキリスト教を受け入れることではなく、日本人としての信仰、文化、伝統に立って、聖書を読むことが大切ではないかということを思わされます。
大切なことは神様を中心にして生きること
ポイントはキリスト教をやることではなく、神様を中心にして生きることだと思います。そこに全ての問題の解決と本当に幸いな人生があると確信しています。