宗教は違っても神様は同じ(1)

日本人の神様は何か特定の宗教の神様ではなく、全世界の神様だとこのブログではお伝えしています。それは創造主である聖書の神様と同じ神様であり、ユダヤ人の神様と同じ神様であり、キリスト教の神様とも同じ神様であるということを歴史的考察も踏まえてお伝えしています。

今日はそれぞれの宗教の「神」に相当する言葉からも、それを裏付けることができるということについて、「究極の調和を目指して」というウェブサイトの記事からご紹介いたします。

旧約聖書の「エロヒーム」

「エロヒーム」は「エル(力)」の複数形です。二つの意味があって、一つは「無限の力を持つ唯一の神」という意味で、尊厳の複数形とも言います。今一つは「神々」という意味で、「天界の人間や、天使や、神の命令を受けてこの世で働く人々」もその中に含まれています。

つまり「エロヒーム」は神様の総称であり、神様と日本語でいうような普通名詞です。

旧約聖書の「ヤーウェ」

口語訳では、「主なる神」と訳していますが、ヘブライ語では「ヤーウェ・エロヒーム」です。なぜ「ヤーウェ」を「主」と訳したかといえば、≪出エジプト記20:7≫に「あなたは、あなたの神『ヤーウェ』の名を、みだりに唱えてはならない」と戒められているからです。そこでイスラエル人は、「ヤーウェ」の名が出て来ると「ヤーウェ」と発音せず、「アドナイ」と発音することにしました。

ヘブライ語で「アドナイ」とは「主」という普通名詞で、一家の主人、部族の長、王様など、すべて上に立つ人を指して言う呼び名です。

「ヤーウェ」の名が神様から啓示されたのは≪出エジプト記3:13~15≫です。神様は「わたしは有って有るもの」(エイエー・アシェル・エイエー)である。「わたしは有る」(エイエー)という方がモーセを遣わしたと言いなさいと言いました。ところが「あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(ヤーウェ)が、私をあなたがたのところへ遣わされた」と、初めは「エイエー」と言われたのに、今度は「ヤーウェ」に変わっています。しかも、「これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である」と言われました。

実は「エイエー」とは「わたしは有る」という意味で、「ヤーウェ」は「彼は有る」という意味なのです。つまり「エイエー」は神様が自ら名乗られるときの名前であり、「ヤーウェ」は人が神様を指して言う名前なのです。しかも、ユダヤ人は「ヤーウェ」と言わずに、「アドナイ」と言っているのです。つまり「永遠の名」とはその発音のことではなく、象徴的な意味だということが分かります。

宗教は違っても神様は変わらない

旧約聖書の「エロヒーム」、「ヤーウェ」は神様の固有名詞ではなく、神様の性質を示す言葉であり、日本語で「神様」と言った場合とほぼ同じ意味合いで使われていると考えて良いと思います。つまり、宗教は違っても、「神様」という言葉からは違う神様を指しているとは言えないということだと思います。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 使徒の働き 15章6~11節

そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。

そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」

異邦人はユダヤ教徒になるべきなのか

「この問題」とは、異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守らせて、ユダヤ教徒にすべきなのかどうかという問題です。激しい論争の後、ペテロが言ったのは、神様はユダヤ教徒であるかどうかを問題にしておられないのに、どうして私たちがそれを問題にすることができるだろうか。できるはずはないということだと思います。

神様は宗教を問われない

私たちが救われるのは、主イエスの恵みによるのであって、宗教によるのではありません。神様は私たちがユダヤ教徒であるかどうかを問題にしないのと同じように、キリスト教徒であるかどうかも問題にはされないでしょう。

誰でも神様を中心にして生きることができます

主イエスがメシヤとして私たちの罪の身代わりに十字架に死んでくださったという恵みによって、私たちは誰でも神様を中心にして生きることができるようになったのです。自分の願いを中心にして苦しむのではなく、神様の願いや思いを中心して生きる喜びの人生を全ての人に体験していただきたいと願っています。