神様を中心にして生きるとは
「神様を中心にして生きること」が人生の目的であるとお伝えしています。それは正しい生き方をすることと言い換えることもできると思います。また、必ずしも何かを達成することではなく、生きる方向性のことだと思います。
変えられない状況の中でも正しく生きることはできる
ですから、こんな状況では人生の目的を果たすことができないということもないと思います。もちろん、変えることができる状況は改善すべきだと思いますが、自分では変えることができないとしても、その状況の中で神様を中心にして生きる、正しく生きれば、そのことがすでに人生の目的を果たした生き方だと思います。
今、神様を中心とするなら満足です
志半ばにして、この世を去るとしても、私はそれ程無念ではないと思います。だいたい、その志が自分の願いであるなら、それは自己中心だと思います。私はこの「日本人の信仰と聖書について考える会」を通して、全ての日本人が神様を中心にした正しい生き方をして、本当に幸いな人生を送って欲しいと願っていますが、仮にそれが果たせなかったとしても、私は今、神様を中心として生きることができるなら満足です。
神様を中心にするなら人生は成功
人から高い評価を得たり、大きな財産を作って豊かな生活をすること、それは決して悪いことではないと思いますが、私はたとえ人から高く評価されることがなかったとしても、大きな財産を作れなかったとしても、神様を中心にして正しく生きるなら人生は成功だと思います。
誰でも今、手に入れることができる
人生の目的とは努力して、やっとたどりつくゴールではなく、今、この瞬間に神様を中心にすれば手に入れることができるものだと思います。これまでの人生がたとえどのような人生であったとしても、今、中心を自分ではなく、神様にするなら誰でも手に入れることができるものだと思います。
どちらを選びますか
それは能力によらず、血筋によらず、境遇によらず、運命によらず、誰でも手に入れることができるものだと思います。あなたは、これからも自分を中心にして、自分の思いや願いの達成を追及する人生を送りますか。それとも、自分の欲求や願いはありますが、それを追求する人生ではなく、神様の願いや思いを中心にして、正しく生きる人生を送りますか。
それは毎日の選択
そのような選択は毎日あると思います。いつまでもあの一言が許せないと言って、その人を憎んで生きるのか。それともそれは正しい生き方ではないと考えをあらためて、許すことを選ぶのか。上手に表面はつくろっていますが、心には苦い思いを抱いて、さりげなく意地悪をするのか。それともそれは正しいことではないと心をあらためて、本当に相手のことを考えてあげるのか。自分を中心にするのか、それとも神様を中心にするのか。その選択は毎日あると思います。
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。
新約聖書 使徒の働き 12章12~17節
こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。
ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。彼らは、「あなたは気が狂っているのだ」と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ」と言っていた。
しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門をあけると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。
それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言って、ほかの所へ出て行った。
まさか祈りが答えられると思っていなかったのか
人々はペテロが無事に救出されるようにと祈っていたのではないのでしょうか。ロダは門をあけもしないで奥へ駆け込んだというのも笑ってしまいますが、人々はロダの知らせを聞いてまったく信じなかったというのも笑ってしまいます。彼らは熱心に祈ってはいましたが、まさか祈りが聞かれるとは思ってもみなかったということなのでしょうか。意外に私たちはそんなものかもしれません。
ペテロも考えていなかったのではないか
ペテロはどう思っていたのでしょうか。自分は牢から出られると思っていたのでしょうか。思っていなかったのかもしれません。仮に出られなかったとしても、牢の中でも神様を中心に生きることはできますし、そこで死ななければならなかったとしても、無念ではなかったのだろうと思います。
神様の計画を確信した
でも、神様はペテロを牢から救い出してくださったということが分かったので、自分には何も計画はなかったかもしれませんが、神様には計画があると確信したのではないでしょうか。私たちは神様に生かされる限り、この地上で神様から任される働きをするということではないかと思います。それは私たちの計画ではなく、神様が私たちに与える計画だと思います。