人間関係の悩みから見えて来ること

神様を中心にすることが答え

これまで人間関係は手段であって目的ではないこと、神様を中心にするなら人間関係も正しく対処できるようになるとお伝えしてきました。もちろん、神様を中心にしていても人間関係の問題はあると思います。しかし、神様を中心にするなら、それらの問題に正しく対処でき、悩む必要はなくなると思います。

悩みとは何か

結局、悩むということは、対処の仕方が分からない、または対処の仕様がないことについて考えているということだと思います。神様を中心にするなら、対処の方法が分かり、対処の仕様がないことについては考えないという判断ができるようになるということだと思います。

本当の問題は自己中心

それでも悩むとすれば、それは自分が中心となっているということであり、神様が中心になっていないということだと思います。いつでも、どこにでも問題を起こす人はいると思います。どうしてあんなことを言うのかという人は世の中にはいるものだと思います。でも、それはあなたの問題ではなく、その人の問題だと思います。そういう人もいるということを受け入れることが神様を中心にすることだと思います。

人に気に入られるためなのか

また、人からどう思われているのか、受け入れられているのか、いつも不安だという人もいます。健全な意味でのフィードバック、状況判断は必要だと思いますが、人から受け入れられること自体は目的ではありません。神様の前に正しく生きることが目的だと思います。そのために人を愛し、人に仕える。それが本当にその人の助けになっているのかどうかというフィードバックは大切ですが、その人に気に入られるためではありません。

あなたの心にある思いは何か

結局、それでも人の目が気になる、何であの人はあんなことを言ったりやったりするのかと思い悩むとすれば、それは自己中心だろうと思います。あなたの心の中は、いつも自分の事でいっぱいになっているのではないでしょうか。神様を中心にするとは、自分の事ではなく、神様の事、神様の願い、そして人を愛する事を考える事です。たとえその人がどういう人であったとしても、問題はその人がどういう人かということではなく、その人に何をしてあげることができるのかということだと思います。

人格的な成熟を目指す

それは人格的な成熟が必要になる事だと思います。一朝一夕にできるようになるものではないと思います。人間は皆、生まれながらに自己中心だと思います。それを「罪」と聖書は言っていると思います。だから、自己中心であることは仕方がないことですが、それは的外れであって、そのままでは幸せな人生を生きることは困難ですから、中心を神様に改めて、成熟を目指すということだと思っています。

気付いたら中心を変える

成熟した大人だけが味わうことができる人生の深みというものがあると思います。自己中心である現実を受け止め、自己中心に気付いたら中心を神様に変えて成長を目指しましょう。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様を中心にすることに思いを向けていただきたいと思います。

新約聖書 使徒の働き 11章19~26節

さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。

ところが、その中にはキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。

この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。

彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

ユダヤ人だけという思い込み

迫害によって散らされた人々はギリシヤ語を話す国際的なユダヤ人だったと思われますが、彼らも神様を中心とした生き方はユダヤ人だけに関係することだと考えていたのではないでしょうか。

ユダヤ人だけの問題ではない

ところが、アンテオケという所に来てからはユダヤ人ではない人にも神様のことを伝えたようです。驚いたことにユダヤ人ではない人もイエスについての話を聞いて、神様を中心に生きるようになったということだと思います。「主の御手が彼らとともにあった」とありますが、それは神様の働きであったと同時に、正しい事だという確信もあったということではないでしょうか。

「キリスト者」と呼ばれるグループ

ユダヤ人だけでなく、ギリシヤ人も神様を中心として生きるようになり、そのような人たちがアンテオケでもグループを形成するようになったのでしょう。彼らは「キリスト者」と呼ばれるようになったとあります。ここにユダヤ教とは違う、「キリスト教」という宗教の始まりを見ることができるのではないかと思います。

しかし大切なことは「キリスト教」ではなく、神様を中心とした生きざま

その生きざまが神様を中心としていない人とは違って素晴らしいという意味で「キリスト者」と呼ばれたのであれば名誉なことだと思いますが、単に変わった人たちのグループ、これまでとは違うグループという意味であったとすれば考えなければならないと思います。大切なことは神様を中心とする幸いな生き方であり、新しい宗教を始めることではないと私は思います。