人生の目的は神様の中にある
私は何のために生まれて来たのか。それが人生の目的だと思いますが、それは私たちに命を与えた神様の中にあるものだと私は思っています。だから、いくら自分で考えて、これが私の目的だと決めても、「確信」を持つことができず、本当にこれが私の目的なのかと迷うことになります。
「確信」とは思い込みの激しさのことではなく、確かにそうだという動かない思いだと思います。それは私たちを造った神様の中にしかないものだと思います。
神様の願いを求める
ですから、自分の願いを達成することではなく、神様の願いを達成することに思いを定めることが大切だと思います。人生の目的は「自己実現」ではなく、「神実現」だと言っている人がいますが、まさにその通りだと私も思います。
このように、自分の思いを中心にするのではなく、神様の思いを中心にするなら、人生の目的が見えてきます。そのためには、「神様、私はあなたの思いや願いを中心にして生きたいと願っています。どうぞ私を導いてください。」と祈ると良いと思います。
なぜなら、放っておくと私たちはすぐに「自己中心」になって、それさえできれば幸せになれると勘違いしやすい者だからです。幸せな人生、これで良いと言う確信は「神様を中心にする」ところにあると思います。
今、神様を中心にする
今やっていることをないがしろにして、神様の目的、使命は何かと考えるのは間違いではないかと私は思います。目には見えませんが、これまでの人生も神様が導いて来られ、今あなたがしていることも決して偶然ではないと思います。
もちろん、神様の目的や使命は固定化されたものではなく、導きだと私は思いますので、導かれれば別の道に進むこともあり得ると思いますが、自分の願いが先に立っているなら、それは自己中心だと思います。今与えられているところで、神様を中心にすることによって、その結果として導かれていくものではないでしょうか。
今日まで導かれて
私は高校の英語教師をしていた時に、あるクリスチャンの方と出会って、30歳の時にクリスチャンになり、神様を中心として生きるようになりました。
すると聖書をもっと知りたいという思いが与えられて、聖書を学んでいるうちに、これを人々に伝えたいという願いが与えられて、35歳の時に牧師になりました。
9年間牧師をしましたが、これを職業のようにして生活費をいただけば、お金のためにやっているという誤解を与えることになると思い、自分で仕事をして収入を得て、聖書のことばを伝えることにしました。
54歳の現在、大切なことはキリスト教という宗教ではなく、神様を中心にして生きるということだと気が付いて、「日本人の信仰と聖書について考える会」を始めました。
もちろん、当初、私の中にはこのような計画はまったくありませんでした。ただ神様を中心にして生きて、今日まで導かれて来たとしか言いようがありません。これから先のことも分かりませんが、これまでと同じように神様を中心にして生きていきたいと思っています。「思えば遠くへ来たもんだ」という感じがします。何か参考になれば幸いです。
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。
新約聖書 使徒の働き 10章24~33節
その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。するとペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。私もひとりの人間です」と言った。
それから、コルネリオとことばをかわしながら家に入り、多くの人が集まっているのを見て、彼らにこう言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。
ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか。」
するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、こう言いました。『コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。
それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海べにある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。』 それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。
いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前(みまえ)に出ております。」
ペテロをひれ伏して迎える
ペテロが到着すると、コルネリオはペテロの足もとにひれ伏して拝んだと書かれています。それはあたかもペテロが神様であるかのような迎え方であり、大袈裟な迎え方だと思いますが、コルネリオがいかに神様を中心にして生きたいと願っている人であるかが良く分かると思います。ユダヤ人の間でも、ローマ人の間でも、このような迎え方はたぶん普通ではないことだったと思います。
神様の願いに生きたいと心を定めること
コルネリオは親族や親しい友人たちを呼び集め、ペテロという人物から神様に関する特別な話を聞くことができると待ち望んでいたのだと思います。本当に神様の願いに適った生き方をしたいというコルネリオの思いを感じます。このように心が神様に定まっているなら、神様の願いや思いを必ず知ることができるようになると思います。まず、神様の思いや願いに生きたいと心を定めることが大切だと思います。