人付き合いの目的・価値について

今日は「人間関係の悩みヒント」というサイトから、「人付き合いの目的・価値について」という記事をご紹介して、人間関係について考えてみたいと思います。参考にしてみてください。以下、サイトからの抜粋です。

何のために人付き合いをするのでしょうか?

「必要がある」からでしょうか。生きていくためにどうしても付き合いが必要な人はいます。そういう人との付き合いは大切にしたほうがいいでしょう。でも本当に付き合う必要がある人は限られているのではないでしょうか。「誰とでもうまく付き合わなければいけない」のような思い込みが自分を苦しめているのかもしれません。

「したほうがいい」からでしょうか。いい人間関係を心がけたほうがいいと思いますが、そのためにすごく苦しむようなら、無理をしなくてもいい場合もあると思います。

「幸せになるため」でしょうか。人との付き合いの中でたくさんの幸せを得ることができます。人から学べることがたくさんあります。自分を成長させることもできます。幸せになるための人付き合いができる人が何人かでもいれば、幸せなのではないでしょうか。

「誰のための人付き合い」でしょうか。「自分のため」でしょうか。だったら、それで苦しむのは自分のためになっていません。「人のため」でしょうか。それを喜んでやれればいいのですが・・・。「自分のため」と「人のため」両方だとは思いますが、自分の心は大切にしたほうがいいでしょう。

「人付き合いはなんのため?」の答えは、人それぞれ、その時々、相手によって違うと思いますが、それを考え直してみると何かヒントが見つかるかもしれません。

もう一つの考え方としては、

「なんのための“人付き合い”?」 その答えは人それぞれで違っていても、「どうせするなら、人付き合いを少しでも愉しめたらいい」のではないでしょうか。(サイトからの抜粋は以上です。)

目的と手段を区別する

人間関係においても、目的と手段が明確になっていないと混乱するのではないでしょうか。私は人間関係は目的ではないと思います。神様を中心にして生きること、そして、人々を愛して、人々の幸せのために自分ができることをすること。それが人生の目的だと思います。人間関係はその結果として、そこに生まれるものではないでしょうか。

自己中心が関係を悪くする

人間関係が良好であることは良い事だと思いますが、それを目的にして行動するのではなく、人々を愛して、その人の幸せを考えてあげたら、結果として関係は良くなるだろうと思います。時には、その人のことを心から愛して、その人の益のために苦言を呈することも必要かもしれません。しかし、自己中心は関係を悪くする原因となり得るでしょう。

目的を共有する友を持つ

神様を中心に生きるという目的を共有できるなら、強い絆を持つことができるでしょう。切磋琢磨することもできると思います。そういう友を持つことはとても有益だと思います。神様を中心にして生きるなら、そのような友との出会いもまた与えられるだろうと思います。ポイントは神様を中心にし、そこから目を離さないようにすることだと思います。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。そして、具体的に神様を中心とした行動をしましょう。

新約聖書 使徒の働き 9章32~43節

さて、ペテロはあらゆる所を巡回したが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。彼はそこで、八年の間も床に着いているアイネヤという人に出会った。彼は中風であった。

ペテロは彼にこう言った。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」 すると彼はただちに立ち上がった。ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った。

ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。

ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください」と頼んだ。

そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。

ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。

このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。そして、ペテロはしばらくの間、ヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていた。

神様の力

8年間寝たきりだったアイネヤの病をたちどころに癒し、一度死んだドルカスを生き返らせた事が記されています。文字通りそのようなことがあったのか知る由もありませんが、ぺテロがイエス・キリストを伝え、そこに神様の力が働いていたことを伝えているのではないでしょうか。

「聖徒」という言葉

目にとまったのは、これまで「弟子」とか、「信者」という言葉が使われていましたが、ここで初めて「聖徒」という言葉が使われていることです。呼び名が変わったということは、何かが変わって来たことを意味しているのかもしれません。もしかしたら、彼らは新しい宗教のメンバーという印象が強くなってきたのかもしれません。

神様に立ち返った

でも、大切なことは「ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った。」「このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。」ということではないでしょうか。彼らはみなユダヤ人だったと思いますが、それまでは神様を中心としていなかったが、神様に立ち返ったということではないでしょうか。

宗教ではなく神様

宗教をやっているからと言って、必ずしも神様を中心にして生きているとは限らないということではないでしょうか。大切なことは何かの宗教の信者であるということではなく、神様を中心にすることだと思います。それは新しい宗教のように思われたのかもしれませんし、本人たちもそう自覚したのかもしれませんが、ポイントは宗教ではなく、神様だと私は思っています。