信仰と自己中心を見極める

信仰という仮面をかぶった自己中心に注意

先週、人生の目的は信仰によって生きることだと書きました。信仰とは神様を中心にして生きることであり、神様のために生きることでもあります。それが信仰です。しかし、神様のためと言いながら、それを自己中心の口実にしているということがあり得ることに注意していただきたいと思います。時に、自分でもそう気づいていないことがあるのでやっかいだと思います。

神様のためという自己中心に注意

たとえば、自分達と主義主張が違う者を「聖戦」と称して、武力で排除したり、殺したりすることは許されることでしょうか。また、神様は同性愛や人工妊娠中絶を喜ばれないと主張しても良いと思いますが、だからと言って、同性愛者を殺したり、人工妊娠中絶をする医師を殺したりすることは許されることでしょうか。それは信仰ではなく、自己中心ではないでしょうか。

自分の考えは正しいという自己中心に注意

自分の考えに確信を持つことは悪いことではないと思います。しかし、自分の考えを通すために暴力を用いることは許されることでしょうか。これまで、そのような過ちがどれほど歴史の中で繰り返されて来たことでしょうか。それが神様のためということになると、益々自己中心が正当化されることになります。世界の宗教紛争の原因はここにあるのではないでしょうか。

神様の思いは主義主張ではなく、良心で判断するもの

しかし、本当の神様の願いや思いというものは良心で判断するものだと思います。たとえそれぞれの宗教の主張が何であったとしても、何が正しいかということは良心で判断するものだと私は思います。神様は私たちの良心に働きかけていてくださっていると私は思います。

聖書を使った自己中心にも注意

聖書を研究して、聖書の中から人間の行動基準のようなものを導き出して、人や自分に当てはめることは注意した方が良いと思います。結局、人は自分の都合の良い解釈をして、聖書にこう書いてあると言いながら、自分の行動を正当化したり、人を排除するために使おうとしたりするのではないでしょうか。そういう聖書の使い方は正しくないと私は思います。

神様の声を良心で聞く

聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録だと私は思います。キリスト教の教典としてではなく、神様に思いを向け、神様を中心にして生きるための参考にすべきだと私は思います。大切なことは聖書の中から固定化された教えを引き出すことではなく、聖書を読みながら、今も生きて働いておられる神様が自分の良心に何を話しかけてくださるかということに心の耳を傾けることではないでしょうか。毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読み、良心で神様の声に耳を傾けることが大切だと思っています。

新約聖書 使徒の働き 21章17~26節

エルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで私たちを迎えてくれた。次の日、パウロは私たちを連れて、ヤコブを訪問した。そこには長老たちがみな集まっていた。彼らにあいさつをしてから、パウロは彼の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ話しだした。

彼らはそれを聞いて神をほめたたえ、パウロにこう言った。「兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰に入っている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。ところで、彼らが聞かされていることは、あなたは異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむくように教えているということなのです。

それで、どうしましょうか。あなたが来たことは、必ず彼らの耳に入るでしょう。ですから、私たちの言うとおりにしてください。私たちの中に誓願を立てている者が四人います。この人たちを連れて、あなたも彼らといっしょに身を清め、彼らが頭をそる費用を出してやりなさい。

そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、みなにわかるでしょう。信仰に入った異邦人に関しては、偶像の神に供えた肉と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けるべきであると決定しましたので、私たちはすでに手紙を書きました。

そこで、パウロはその人たちを引き連れ、翌日、ともに身を清めて宮に入り、清めの期間が終わって、ひとりひとりのために供え物をささげる日時を告げた。

大切なことは神様を中心にして生きること

大切なことはユダヤ教という宗教ではなく、神様を中心にして生きることでしょう。しかし、それは決してユダヤ教を否定するものでもありません。ユダヤ教はユダヤ人にとってユダヤ人の生活そのものだと思います。しかし、異邦人はユダヤ人の生活をする必要はありません。異邦人にもそれぞれ生活習慣があると思います。その中で神様を中心にして生きることが大切だと思います。

ユダヤ人の生活を大切にしていないという誤解

しかし、パウロについて、ユダヤ教に反することを教えているという噂があったのだと思います。だから、そうではないということを示して欲しいとヤコブに言われ、パウロはそれに従ったことが書いてあります。

日本人は日本人の生活様式を大切にしながら神様を中心にして生きる

同じように、私たち日本人が神様を中心にして生きるというのは、決して西欧キリスト教的な生活をすることではありません。それは西欧キリスト教を否定するものではありませんが、神様を中心にするというのは、決して西欧キリスト教的になることでもありません。日本人としての文化、習慣、価値観、伝統を大切にしながら、神様を中心にして生きることが大切だと思います。

日本人の信仰には聖書の影響がある

さらに、日本の歴史を調べてみると、そこには聖書の信仰、ユダヤ人の信仰、イエスの弟子たちの信仰の影響があったと考えることができます。西欧キリスト教よりもずっと古くから、日本には聖書の信仰が伝えられていたのです。日本人の信仰を大切にすることは、むしろ聖書の信仰を大切にすることになると思います。

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