キリスト教神学の2つの間違い

メシアニック・ジューであるアーノルド・フルクテンバウム博士は「ヘブル的キリスト教入門」の中でキリスト教神学の2つの間違いについて以下のように指摘しています。

霊的なユダヤ人

異邦人がイエスを信じたら「霊的にはユダヤ人」になる、という考えは聖書にはない。まず、「霊的」とは聖霊に支配されているという意味だが、聖霊に支配されている異邦人は「霊的なユダヤ人」になるのではなく、「霊的な異邦人」である。「霊的なユダヤ人」とは聖霊と正しい関係を持つユダヤ人のことで、イエスを信じるユダヤ人という意味である。

ユダヤ人と異邦人の区別

さらにイエスを信じたらユダヤ人と異邦人の区別がなくなるというのは聖書の教えではない。確かに救いに至る道は同じで、皆イエスによって救われ、そこには何の区別もない。しかし、それで両者の区別が全てなくなる訳ではない。奴隷と自由人、男と女の区別がなくなる訳ではないのと同じである。救いの方法、キリストのからだに連なる方法、霊的成熟の道はユダヤ人でも異邦人でも同じであるが、その他の領域では区別は存在する。

「神のイスラエル」という言葉

「神のイスラエル」とはキリスト教会のことではなく、メシアニック・ジュー(イエスをメシヤと受け入れるユダヤ人)のことである。聖書の中でイスラエルという言葉が異邦人を指すことはない。イスラエルの全てが神のイスラエルではなく、約束の子、レムナントだけが神のイスラエルだと聖書は言っているのである。

区別と一致

メシアニック・ジューは異邦人信者とは区別されるが、共に一つのメシヤのからだを形成している。このような区別はキリストのからだの一致を乱すものではないかという声もあるが、そんなことはない。一致していることと同じであることは意味が違う。全ての信者が同じではない。皆違う役割が与えられているのである。(本からの引用は以上です。)

西欧キリスト教会だけが神に至る道ではない

以上のことからも、西欧キリスト教会だけが真理を持っているとか、神様に至る唯一の道だとは言えないし、聖書もそれを支持していないということが分かると私は思います。もちろん西欧キリスト教も否定されるものではないと思いますが、ユダヤ人も異邦人も、全ての人はメシヤによって神様に至るのであって、宗教によるのではないと思います。

日本人は日本人としての役割がある

また、ユダヤ人はユダヤ人としての区別があるように、日本人は日本人としての区別が大切だと私は思います。全ての民族は同じ神様を中心にして生きますが、その役割はそれぞれにあると思います。日本人らしく、神様を中心にして生きることが大切だと私は思います。

神様を中心として生きるために、毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めします

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きた人々の記録です。キリスト教の教典としてではなく、神様に思いを向け、神様を中心として生きる上で大変有益だと私は思います。

新約聖書 使徒の働き 20章25~31節

皆さん。御国(みくに)を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。

あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

私が出発したあと、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。

パウロのお別れの言葉の続き

ここにパウロが3年間教えて来た内容の全ては書かれていませんが、「御国を宣べ伝えた」とあります。「御国」とは神様の国ということであり、神様を中心として生きる人々の国についてパウロは伝えたということではないかと思います。

神のご計画の全体

だから、すべての人たちが受けるさばきについて責任を果たしたと言っています。それはユダヤ人であるかどうか、クリスチャンであるかどうかに関わらず、全ての人が受ける神様の裁判ということではないかと思います。全人類は神様の前にどう生きたのか、人の見方ではなく、多数決でもなく、神様によって公正な裁判が行われるということではないでしょうか。

神の教会

あなたがたは神の教会の監督として、自分だけでなく、グループ全体にも気を配りなさいとパウロは言っています。これは神様を中心にして生きる人々で、何らかの団体を組織することを意図しているのでしょうか。少なくともキリスト教会はそのように考えて団体を組織してきたのだと思います。

宗教団体のメリットとデメリット

私は一人一人が神様を中心にして生きるために、そのようなグループはメリットもあると思いますが、それ自体が目的となり、宗教となってしまうデメリットもあると思っています。大切なことは神様を中心にして生きることであり、団体を組織すること自体ではないはずです。

日常生活の中でも

神様を中心にして生きるために宗教団体が有益であるなら、それが否定されるものではないと思いますが、宗教団体に入会する人はそのデメリットにも注意が必要だと思います。しかし、必ずしも宗教団体の会員にならなくても、日常生活の中で、神様を中心にして生きるという目的を良く果たすことができるような年長者や指導者、尊敬できる人たちがいるなら、また、指導し、育むべき若い人たちがいるなら、それは良い事だと思います。形ではなく本質に目を留めるべきではないでしょうか。

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