小学生の電車通学に世界が驚愕

明らかに小学校低学年と思われる日本人の子供が一人で電車通学をする姿に世界が驚いたという記事を見ました。都会では普通に見かける光景だと思いますが、海外の反応を見て、あらためて日本人のレベルの高さを思いました。記事とコメントをご紹介いたします。

外国人はこう見てる、子供の一人歩き

日本では、小学生の子供が一人で出歩きます。登下校だと、小学生のグループや友達同士ということもあります。しかも、電車などを使う場合でも、一人、または子供だけで移動するんです。それだけでなく、もっと驚いたのは、一人で電車に乗って登下校をする小学生が、電車の中で読み物を読んでいることです。さすが勉強熱心な日本人!

この記事に対する海外の反応

だから、日本は超先進国って言われるわけよ。子供まで15年進んでる。本当に日本ってすごいなあ。

子供が一人歩きしてる時に読み物を読むなんて、本当に信じられないんだけど!もちろん、大人もね。

つまり、日本は平和っていうことだよね。ここメキシコでは、ゴミがいたるところに落ちてて、犯罪や暴力があふれてる。こんな不潔で危険な国で、誰が子供を一人歩きさせたいのか、っていう話。

日本と自分の国を比べるってありえないと思う。私はアジアファンだけど、日本は別格。日本のことを知れば知るほど、返す言葉もなくなる。それぞれの文化や国に特徴はあるけれど、そこから学ばないとね。とはいっても、日本から学べることってありすぎる!

日本の素晴らしいところは、安全で清潔な国だっていうことだと思う。日本って夢だよね。

日本では、子供の誘拐とか連れ去り事件は起きてないの?

日本のこういうニュースを聞くたびにびっくりしちゃう!

ここで女の子が一人で歩いてるのを見ると、ドキッとしちゃう、すっごく危ない!私の国でこんな女の子が一人で歩いてたら、ほとんどの確率でもう二度と帰ってこないわよね。

世界中が日本を見習うべきだよね。日本のすごさをあまり評価しない人もいるけど、日本はほかの国とは全然違うっていうことと、とても安全だっていうのは、誰もが同意見だと思う。

へー、街の中や駅で小学生が一人歩きするなんて、本当に見たことも聞いたこともなかったよ。新しいことを知りました。

本当にびっくりした!子供が一人で電車を乗り継いで登下校しちゃうなんて、日本のものすごい安全性を表してるね。

日本の安全性について教えてくれてありがとう。私にとって、小学生が一人で登下校してるなんてアニメの世界だけなのかと思ってた。リアルの世界でもそうだなんてホントびっくり。

神様を中心にして生きる

このような日本人の倫理観は神様を中心にして生きてきたことで育まれたもので、日本人であれば当たり前のことではないかと思います。その日本の当たり前も少しづつ損なわれて来ているのではないかと心配しています。今こそ神様を中心にした生き方を見直す必要があるのではないでしょうか。

神様を中心として生きるために、毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きた人々の記録であり、日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様に思いを向け、神様を中心にして生きる日本人として参考にしていただきたいと思っています。

新約聖書 使徒の働き 20章17~24節

パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。

私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。

人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。

ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

パウロの生き方

これはパウロのお陰で神様を中心にして生きるようになった人々への別れのことばです。これまでパウロがどんな思いで生きて来たのかが語られています。まず目に留まるのは、主に仕えて来たということばです。自分の利益や願いのためではなく、ただ神様を主人として仕えて来たとパウロは言っているのだと思います。

また、それは謙遜の限りを尽くし、涙をもって、数々の試練の中で神様に仕えて来たと言っています。このように生きた人がいたことを忘れないで模範にしたいと思います。

神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰

次に私の心に残ったのはこのことばです。「神に対する悔い改め」とは、中心を自分ではなく神様にすることだと思います。「主イエスに対する信仰」とは、イエスを主人とすること、イエスの教えに従うことだと思います。福音書を見ると、私たちは目に見えない神様をイエスを通して知るとイエスは教えたことが分かります。「信仰」とは神様を中心にして生きることですが、「主イエスに対する信仰」とは、イエスの教えを神様の教えのように聞いて従うことと言っても良いのではないかと思います。私はこれが日本人の良心であり、信仰ではないかと思います。

私のいのちは少しも惜しいと思いません

最後に心に残ったのはこのことばです。命より大切なもの、命を懸けても果たすべき使命というものがある。命を粗末にしてはいけないという次元の話ではありません。これが私たちの生きる意味だと思います。神様を中心にして生きるとはこういうことだと思います。これが日本人の生き方ではないでしょうか。

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