メシヤニック・ジューが指摘するキリスト教の問題

メシヤニック・ジュー(イエスをメシヤと受け入れたユダヤ人)であるアーノルド・フルクテンバウム博士の「ヘブル的キリスト教入門」という本から、ユダヤ人から見たキリスト教の問題についてご紹介し、日本人の信仰について考えてみたいと思います。

異邦人的なキリスト教

第一に、今日のキリスト教会は異邦人文化に染まっていて、大抵のユダヤ人は違和感を覚えるという問題があるとフルクテンバウム博士は指摘しています。

ユダヤ人は異邦人文化を敬遠するが、それはユダヤ人文化の方が優れていると思っているからではなく、異邦人文化が風変りだからである。十字架や、あれやこれとうるさい律法的な規則、教会の儀式などはとりわけ異邦人的である。こうしたことはどれも聖書から出ているものではなく、教会が異邦人中心になってから歴史的に発展してきたものである。かといって、異邦人文化が聖書的に間違っているということではない。ただ、ユダヤ的ではないというだけである。

反ユダヤ主義の問題

第二に、多くの教会に見られる反ユダヤ主義の問題がある。あからさまに反ユダヤ主義的な教会は、ユダヤ人信者が教会員になることを許さない。それよりゆるやかな反ユダヤ主義的教会は、教会員として受け入れるが、歓迎の雰囲気はなく、ユダヤ的なものから縁を切るように求める。(本からの引用は以上です。)

キリスト教が唯一の聖書の教えということではない

以上のことから分かることは、決してキリスト教が唯一の聖書の教えの形ではないということだと思います。それがいけないということではありませんが、それは異邦人的、西欧的であり、聖書の信仰の一つの形ではありますが、唯一絶対の形ではないということだと思います。

日本人の信仰のあり方

日本人の場合もユダヤ人と同じように、クリスチャンになると、異教的な日本人の風習と縁を切るようにという考えがキリスト教会にはあるかもしれません。しかし、このブログでもお伝えしている通り、日本の風習は聖書の信仰、メシアニック・ジューの信仰や価値観の影響を受けていると考えることができると思います。確かに西欧で発展してきたキリスト教の風習とは違いますし、西欧キリスト教という宗教から見るなら日本人の信仰は異教(つまり、西欧キリスト教ではないという意味)だろうと思いますが、それはどちらが良いという問題ではないと思います。私はむしろ日本人は日本人の文化や習慣を大切にすべきではないかと考えています。大切なことは神様を中心にして生きることであり、キリスト教的になることでもないと思います。何か特定の宗教にこだわらないという点においても、それは日本人の信仰心の特徴だと思います。

神様を中心にして生きるために、毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きた人々の記録です。キリスト教の教典としてではなく、私たちが日本人として、神様に思いを向け、神様を中心にして生きる上で大変参考になると私は思っています。

新約聖書 使徒の働き 19章11~20節

神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。

ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈禱師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名(みな)をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。

そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言った。

そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。

そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。

悪霊の働きと神様の力

これがそのまま事実の記録であるのかどうか、私には判断できませんが、神様はただ議論の対象ではなく、私たちの実際の生活に働く力であることは私も経験しています。また、神様は目で見ることができない霊的な存在ですから、悪霊もあるだろうと私は思っています。ですから、このような霊的なことを軽く考えない方が良いと私は思います。

悪い行いを離れる

本当に神様がおられるということが分かり、単に宗教をやることではなく、神様を中心にして生きるようになった人々は、その良心に責められる悪い行いがあると感じるようになったのでしょう。それは誰かから強制されたものではないでしょう。そうしなければ救われないということでもありません。神様を中心にして生きるとは、良心に従って生きることでもあると思います。それ以前の生き方とは価値観も変わってくるだろうと思います。

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