日本人の信仰、その特徴

日本人独特の宗教観

先週、日本人の宗教観について、国際比較調査のデータに基づく分析結果をご紹介しました。ひとことで言うなら、日本人は無宗教の人が多いにも関わらず、宗教心を大切にする人が多いという結果でした。これは他国と比べると日本独特の宗教的な態度だと言えるということでした。そして、この結果について、このようなまとめがされていました。

かえって役立つと考える分析者のまとめ

こうした宗教的態度は、一朝一夕で形成されたものではなく、日本の長い歴史の中で繰り返された生活の知恵の蓄積によって獲得されたものだと信じる。そうであるならば、奇妙とも思える日本人の宗教的態度が世界各民族の宗教対立の融和に、かえって役立つと考えてもよいのではなかろうか。

この分析結果に寄せられたコメントを紹介します

このコラムに大賛成です。本当にそう思います。日本人の宗教的な曖昧さ(寛容さ)は誇るべきですね。(男性)

日本では、キリストも仏陀も孔子もマホメットも八百万の神の1つに過ぎないんですよー!だから神社にお参りするのも、お寺にお参りするのも、クリスマス祝うのも意味的にはみんな一緒♪全ての神様みな兄弟で、これぞ世界平和に通じる道!(学生)

うん とても興味深いコラムだった。
宗教という枠組みでは、そういった結果にはなるだろう。正月には初詣に行き、葬式は手を合わせ、クリスマスにパーティーをする、そしてクリスマスとは何の日か?を答えられない日本人、、、 ただ1つ加えるとしたら、日本には道徳と常識という宗教よりもヒステリックな思想がある事、この事に関しては一切の妥協や例外を認めず、かなり排他的で、その基準が、世間一般的な普通、、とか、多くの人間が考えるとか、、、 個性や個人というのが全然受け入れない。海外の場合はまず善悪の基準が宗教であり、この道徳と常識というのが漠然としている。そして個性や考え方の違いを尊重している、大多数の意見なんてもんは通用しない、海外の人間が日本に来て一番困惑するのがそういうことだろう。「日本に来たら日本のルールと文化に従え」という話しがあるが、そのルールというのが、多数の人間が考えるという意味で、法や経典に書いてる訳でもない。(男性)

日本人の常識、良識について

3人の方のコメントを紹介しました。どの方も日本人として同感という印象を持っていると感じました。最後の方が、「日本には道徳と常識という宗教よりもヒステリックな思想がある」と指摘していますが、このブログでも以前に、日本人は宗教よりも「常識、良識」といったものを大切だと考えていると指摘しました。この方も同じように感じているということだと思います。

私はポジティブに考えています

ただ、この方はどちらかと言えば、そのことをネガティブにとらえているように思いますが、私はむしろ肯定的に考えています。排他的と受け止める人もいるかもしれませんが、私は人格的な成長ととらえています。確かにどこにも明文化されていませんが、それは明文化されるような性質のものではなく、人生経験によって深め、人として成熟することが求められているということだと思います。

人間的な深み

私も若い頃は、そのような暗黙の尺度で評価されることを窮屈に感じましたが、今は、それこそが人間的な深みだと感じるようになりました。私自身まだまだ足りない者ですが、それは最低限をクリアすれば良いということではなく、人間として最高を目指す歩みなんだと思っています。それが日本人であり、私はそのような日本人であることに誇りを感じます。

神様を中心とする価値観

それは何か特定の宗教の教えということではなく、全てを超越した神様を中心とする価値観から出てきたものではないかと私は考えています。それが日本人であり、そこに人格的な成長もあると思います。そのことを少しでも皆様と分かち合い、皆様の人格的な成長のヒントにしていただければ幸いだと考えています。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書には神様を中心として生きた人々の記録が記されています。そこに書かれている基準を守れば良いという宗教の教典としてではなく、私たち一人一人が神様を中心として生きる上で参考にしていただきたいと思っています。

新約聖書 使徒の働き 19章8~10節

それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。

これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。

まずユダヤ人に

ここでもパウロはまずユダヤ教の会堂に入り、ユダヤ人と議論しています。それは新しい宗教についてではなく、「神の国」についてでした。それは神様を中心にして生きるという生き方のことであり、本来ユダヤ教はそれを目指しているという議論をしたのではないかと思います。

それから異邦人へ

しかし、彼らは聞き入れず、聞き入れないだけでなく、会衆の前でこの道、つまり、神様を中心にする生き方をののしったので、パウロは彼らから身を引き、今度は場所を変えて、ツラノの講堂で論じました。ツラノの講堂というのは異邦人が集まる場所だったと思います。

ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた

こうして2年間、パウロは神様を中心にして生きることについて話したので、アジヤに住む人は皆、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いたとあります。「主」とは「主人」という意味です。本当は私たちの主人とは誰なのか。今まで自分が自分の人生の主人だと思っていましたが、それが自己中心の本質だと思います。本当の主人は神様であること。この本当の主人のことばを聞いて、従うことが大切だとパウロは教えたのではないでしょうか。

それは何かの宗教の信者になることではありません。神様を中心にして、正しく生きるということだと思います。

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