自己実現は人生の目的なのでしょうか

自分の願いの達成で満たされない自分

これまでずっと自分の思いや願いの達成を目指して生きてきましたが、それが達成されると、まだ足りない、こんなはずではないという思いになって、決して満足することがありません。そろそろ自分の願いや目的の達成には自分の本当の満足も喜びもないということに気が付いても良いのかもしれません。

不満の原因は自分の中にある

自分の願いや欲求は満足することを知りません。それは向上心ということとはまた違って、満ち足りることを知らないということです。自己実現と人は言いますが、その自己こそ煩悩であり、すべての不満の原因にもなっているからだと思います。

諸悪の根源は自己中心

欲しいと思うから不満になる。欲しいと思わなければいい。煩悩、自我の滅却こそ悟りの境地だと教える人たちは多いと思います。諸悪の根源は自我だということだと思います。私もある程度賛成です。私は自我の全てが悪だとは思いませんが、私たちの自我の中には自己中心という悪が宿っていることは確かだと思います。諸悪の根源はこの自己中心であって、聖書はそれを「罪」という言葉で表していると思います。

解決への3つのステップ

まず、自分の中の自己中心が不幸や不満の原因だと気づくことが大切ではないでしょうか。これが第1ステップ。しかし、私は自己中心は努力や修行によっては滅却できないと思います。そのことに気づくことが第2ステップ。じゃあどうしたら良いのか。私は神様を中心とすることが解決であり、悟りであり、救いだと思います。これが第3ステップ。

何かの宗教の信者になることではない

私がこのブログで言う「神様を中心とする」というのは、決して何か特定の宗教の信者になることを意味していません。そうではなく、神様の願い、神様の思いを第一にして生きることです。私の中には依然として私の思いや願いというものはあります。私にはそれを中心にして生きたいという誘惑がありますが、騙されてはいけません。自分を中心にすれば幸せになれそうな気がしますが、それは必ず不満につながります。

神様を中心にすること

神様の願い、神様の思いを中心にすること。そうすれば必ず深い満足が与えられます。そのような経験を積み重ねることで、自己中心を離れて、神様を中心にして生きることが段々身に付いていくと思います。

1勝でも素晴らしい

そうと知っていながら、また失敗して自分の思いを中心にして、不満につかまっている自分に気付くことがあると思います。勝率は1勝9敗くらいかもしれません。でも。私は1勝に目を留めたいと思っています。だって、以前は0勝10敗で完全に自己中心だった訳ですから、1勝でも素晴らしいと思います。

継続が大事

ロケットが大気圏を突破するまでは大変なエネルギーが必要ですが、突破してしまえば、もう慣性の法則でどこまでも飛んで行くことができるように、初めは大変ですが、やがて大気圏を突破する時が来ると思います。自己中心を退けて、神様を中心にして生きましょう。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きた人々の記録です。キリスト教の教典としてではなく、神様に思いを向け、神様を中心として生きる上で参考にしていただければと思っています。

新約聖書 使徒の働き 18章18~28節

パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向けて出帆した。プリスキラとアクラも同行した。パウロは一つの請願を立てていたので、ケンクレヤで髪をそった。

彼らがエペソに着くと、パウロはふたりをそこに残し、自分だけ会堂に入って、ユダヤ人たちと論じた。人々は、もっと長くとどまるように頼んだが、彼は聞き入れないで、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」と言って別れを告げ、エペソから船出した。

それからカイザリヤに上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンテオケに下って行った。そこにしばらくいてから、彼はまた出発し、ガラテヤの地方およびフルギヤを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた。

さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。

彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。

彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。

異邦人もユダヤ人も神様を中心とすることは同じ

パウロは長らくコリントに滞在し、その後、ケンクレヤからエーゲ海を渡ってエペソへ、そしてエペソから地中海を渡ってカイザリヤに戻り、イエスの直接の弟子たちがいるエルサレムに上り、アンテオケに帰りました。パウロはエルサレムのメシアニック・ジュー(イエスをメシヤと受け入れるユダヤ人)と分裂したのではなく、異邦人のグループもユダヤ人のグループもお互いを受け入れ合っていたことが分かります。

パウロ以外にも教える人が現れるようになった

外国で生まれ育った雄弁なアポロという人が登場します。彼は聖書(旧約聖書)に通じていました。主の道の教えを受け、霊に燃えて、エペソに来て、イエスのことを正確に語り、また教えましたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかったとあります。それはどういうことなのか詳しく書かれていないので分かりませんが、何か足りなかったのだと思います。

教える者としての神学理解

ユダヤ人の会堂でアポロは大胆に話しはじめましたが、それを聞いていたプリスキラとアクラは彼に神の道をもっと正確に説明したとあります。何を説明したのかも書かれていませんので、その内容も分かりません。ただ、神学的な内容に関することだったのではないかと私は想像します。

反対者を論破する

それによってアポロは聖書(旧約聖書)に基づいて、イエスがキリスト(メシヤ、神様に特別に油注がれた者)であることを証明して、反対するユダヤ人たちを論破しました。それは聖書(旧約聖書)を知るユダヤ人に対して、特に反論するユダヤ人に対しても教える立場の教師として必要な神学理解であって、必ずしも私たち皆が知らなければならない内容ではないということなのかもしれません。

神様を中心にして生きる

私たちにとって大切なことは神学的な議論ではなく、神様を中心にして生きることだと思います。