恋愛、結婚がうまくいくパートナー選び

恋愛、結婚の悩みに関する「恋愛心理☆結婚の悩み★男女の心理はこんなに違う!」という興味深いサイトを見つけました。内容を1つご紹介します。

恋愛、結婚がうまくいくパートナー選びについて

もしあなたが「出会いに恵まれない…」「周りにステキな人がいない…」、或いは「今のパートナーは私の理想じゃない…」と愚痴をこぼしているとしたら、それは相手の問題ではなく、あなたの中にある問題に気付く必要があるのです。

残念ながら、今あなたの周りに居る人(夫・妻、恋人や友人)は今のあなたにちょうどいい人ばかりが集まっていることに気づいて下さい。

「類は友を呼ぶ」のことわざ通り、あなたの発している「周波数」のレベルに相応しい相手が、あなたの周りには集まっているのです。あなたの周りに居る人は、あなたの「周波数」に引き寄せられた人に他なりません。

なぜなら、同じ周波数レベルの人たちだからこそ側にいて居心地がよく、価値観も合いやすく、自然体の自分も受け入れてもらいやすいのです。

あなたの周りにあなたが望む魅力的な人がいないとしたら、それは周りの問題ではなく、あなた自身の「魅力度」の問題なのです。

もしあなたが外見に自信があり、外側を磨くことに時間とお金をかけているとしたら、今度はもう少し自分の内側にある、心や魂を磨くことに時間とお金をかけてみると良いでしょう。

外見も内面も輝くことで、あなたの「魅力度」がバランス良くアップすることになるのです。

つまり理想とするパートナーを見つけるのではなく、先にあなたが理想とするパートナーに相応しい相手になればいいわけです。

すでに良い人たちに囲まれていることに気づく

この方が言いたいのは、あなたの周りにいる人が、今のあなたのレベルだということに気づいてくださいということなのでしょう。でも、あなたはすでに良い人たちに囲まれているという気づきも大切ではないかと私は思いました。確かに出会いがほとんどない環境にいる人もいるかもしれません。そういう人は色々な所に積極的に顔を出してみる必要もあるでしょうが、すでに良い人たちに囲まれているという視点を持つことも大切なことではないでしょうか。

内面を磨いて魅力アップする

この方は外面を磨くことも大切だとおっしゃっています。人は外見で判断するというよりも、外見もその人のうちだと思います。でも、外側ばっかり気にするのではなく内面も磨くことが大切ということでしょう。内にあるものが外に現れるものでしょうし、内側を清めれば、外側も清くなるとイエスは教えています。

神様を中心にして生きる

それは生き方に深く関係することではないでしょうか。やはり自己中心的な人は魅力的ではないでしょう。目には見えませんが、神様の思いや願いを中心にして、人が見ていなくても正しく生きようとしている人はやはり魅力的だと思います。それは何かの宗教を信仰しているということではなく、生き方の問題だと私は思います。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 使徒の働き 18章9~17節

ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。

そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。

ところが、ガリオがアカヤの地方総督であったとき、ユダヤ人たちはこぞってパウロに反抗し、彼を法廷に引いて行って、「この人は、律法にそむいて神を拝むことを、人々に説き勧めています」と訴えた。

パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人に向かってこう言った。「ユダヤ人の諸君。不正事件や悪質な犯罪のことであれば、私は当然、あなたがたの訴えを取り上げもしようが、あなたがたの、ことばや名称や律法に関する問題であるなら、自分たちで始末をつけるがよかろう。私はそのようなことの裁判官にはなりたくない。」

こうして、彼らを法廷から追い出した。そこで、みなの者は、会堂管理者ソステネを捕らえ、法廷の前で打ちたたいた。ガリオは、そのようなことは少しも気にしなかった。

神様の民

幻とはどのようなものであったのか分かりませんが、パウロにこのような確信が与えられたことは間違いないと思います。ここで「神様の民」とはユダヤ人のことではなく、異邦人であっても、神様を中心として生きる人々のことを指して言っていると思います。私もそれが「神の民」に相応しいと思います。神様は私たちをそのように見てくださるのではないでしょうか。ユダヤ教徒であるとか、キリスト教徒であるとか、そういうことではないと思います。

「律法にそむいて神を拝むこと」を人々に教えているという批判

反発するユダヤ人から訴えられたのは、そのような内容でした。「律法にそむいて」とはユダヤ教にそむいてということだろうと思います。ガリオはそのようなことの裁判官にはなりたくないと言いました。ユダヤ教であるとか、キリスト教であるとか、そういうことではなく、その人が不正事件や悪質な犯罪を犯しているのであれば、当然さばかれると私も思います。

大切なことは神様を中心として正しく生きるということだと思います。それは宗教や主義主張ではなく、生き方の問題だと思います。