イエスを信じる信仰を異邦人の宗教にしたのは誰か

もともとはユダヤ人の信仰

イエスをメシヤと受け入れて神様を中心にして生きるという信仰は、人間本来の生き方であり、全人類のための信仰だと思いますが、もともとは神様がユダヤ人に与えた信仰だと思います。確かに聖書を見ると、多くのユダヤ教指導者たちはイエスをメシヤとして受け入れることを拒否しました。しかし、メシヤとは何か、神様とは何か、人間の罪とは、罪の赦しとは、このようなことは、まずユダヤ人に与えられたことだと思います。

イエスも弟子たちもユダヤ人であった

イエスもユダヤ人として生まれ、ユダヤ教徒として育ちました。イエスの弟子たちも皆ユダヤ人でしたし、初めイエスをメシヤと受け入れて神様を中心にして生きるようになったのはユダヤ人だけでした。

いつから異邦人の宗教になったのか

新約聖書の使徒の働きには、パウロという人によって、このユダヤ人の信仰が異邦人世界に広がって行く様子が記されています。しかし、パウロは決してユダヤ性を否定していませんので、このユダヤ人の信仰をキリスト教という異邦人の宗教にしたのはパウロではないとアーノルド・フルクテンバウム博士は言っています。

メシアニック・ジューがユダヤ性を放棄する原因となったもの

A.D.132-135、ユダヤ人は再びローマと闘いました。その時の指導者はバル・コクバという人でした。当初、イエスをメシヤと信じるメシヤニック・ジューたちも一緒に闘いましたが、ユダヤ教指導者のラビ・アキバがバル・コクバをメシヤと宣言したので、メシアニック・ジューたちは闘いから手を引かざるを得なくなったとフルクテンバウム博士は言っています。

本来ユダヤ人の信仰だという自覚

それ以来、ユダヤ人でイエスをメシヤと受け入れ、神様を中心に生きるようになった人たちはユダヤ性を放棄するようになり、この信仰は異邦人の宗教になって行ったようです。それはパウロが原因ではなく、バル・コクバをメシヤと宣言したラビ・アキバだとフルクテンバム博士は指摘しています。ところが、19世紀頃からこれは本来ユダヤ人の信仰だという覚醒と共に再び私はクリスチャンではなく、メシアニック・ジューだと主張する人が現れるようになったようです。

それは日本人の信仰でもある

日本人の信仰と文化にはこのメシアニック・ジューの影響があると私は思います。私たち日本人は必ずしも異邦人の宗教であるキリスト教を受け入れなくても、ユダヤ人がユダヤ性を保持したままイエスをメシヤと受け入れ、神様を中心として生きるように、日本人として神様を中心として生きたら、それで良いと私は思います。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 使徒の働き 17章26~30節

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。

確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。

そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。

アテネの人たちに話したパウロの話の続き

パウロはアテネの人たちに神様について話しています。それはかつて神様がユダヤ人に教えた内容ですが、決してユダヤ教の神様ということではなく、全人類の神様だと思います。パウロはそのことを異邦人であるアテネの人たちに話しています。

神様を中心にして生きる

この神様はもちろん日本人にとっても同じ神様です。「悔い改め」とは、これまでの人間を中心とした生き方を改めて、神様を中心にして生きることを指して言っていると思います。それはキリスト教徒になりなさいというような、何か特定の宗教の話ではありません。本来あるべき人間の姿についてパウロは話していると思います。

神様を中心にして、日本人として生きる

西欧人は西欧人として、その文化、価値観を保持しながら、神様を中心として生きるように、また、ユダヤ人はユダヤ人の文化、価値観を保持しながら、神様を中心として生きるように、日本人もまた日本人の文化、価値観を保持しながら、神様を中心として生きたら、それで良いと私は思います。