そんなに好きじゃない男性と付き合うメリット!?

「そんなに好きじゃない男子と付き合って感じた意外なメリット9パターン」と題する面白い記事を見つけましたのでご紹介いたします。

1.会うたび発見があるからデートが新鮮

「よく知らない相手だと、恋愛初期の楽しみが多い気がする」(10代女性)というように、知らない関係を前向きに捉え、交際初期の「互いへの理解を深める期間」を存分に楽しめるようです。

2.もともと期待していないから裏切られない

「良くも悪くもフラットに相手を見られるのがいい」(20代女性)というように、下手な幻想を相手に押し付けずにすむぶん、「期待外れ」ということもないようです。「期待しすぎない」というスタンスは、通常の恋愛にも十分応用できるのではないでしょうか。

3.相手の趣味や教養で自分の世界が広がる

「自分から好きになる相手は毎回結構似ちゃう(苦笑)」(20代女性)というように、異性の好みに一貫性がある人は、興味の範囲外の男性に愛されて付き合うことで視野を広げられるようです。

4.徐々に好きになるから熱が冷めにくい

「付き合うときが愛情のピーク…ってことも結構あります」(10代女性)というように、交際までに情熱を使い果たしてしまいがちな女性にとって、少しずつ愛情を育てられる相手の存在は貴重かもしれません。

5.盲目にならずに相手を冷静に判断できる

「好きだと悪いところが見えないことがある」(20代女性)というように、思いの強さゆえに現実に目をつぶってしまうタイプの女性は、一度落ち着いた恋愛を経験してみてもよさそうです。

6.いつも尽くしすぎてしまうタイプでも失敗しない

「正直、そんなに好きじゃない人なら、尽くさずにすむ(苦笑)」(20代女性)というように、特異なはじまり方ゆえに、過去の恋愛の失敗を繰り返さずにすむという長所もあるようです。

7.遠慮せずに言いたいことが言える

「嫌われたくないと思うと、言いたいことも我慢してしまう」(10代女性)というように、あまり強い恋愛感情がなければ、本音も言いやすいかもしれません。

8.愛される喜びを思い切り味わえる

「好かれて付き合うとこんなに気分がいいんだなと実感しました」(20代女性)というように、自分から告白すると立場的に弱くなりがちなので、一度は正反対の立場を経験するのもよさそうです。

9.嫌われることを恐れず素の自分を見せられる

「ありのままの自分でいられるのってすごく楽」(20代女性)というように、愛されている確証があれば、取り繕うことなく自分を見せられるようです。(サイトからの抜粋は以上です。)

恋愛感情より大切なもの

これは10代、20代の女性に男性との交際について聞いたアンケートですが、結婚関係にも同じことが言えると思います。以前にこのブログでも書きましたように、良い結婚は必ずしも恋愛感情から始まるものではないと思います。もちろん、嫌いな人と結婚しなくても良いと思いますが、初めは恋愛感情がそれほどなくても、好意をいだいてくれる方と人生の目的や価値観を共有し、愛を育んでいくことが大切ではないかと思います。それは自分の感情を中心にすることではなく、神様を中心とした結婚であり、恋愛だと私は思います。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう

聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、実は私たち日本人の信仰のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる上で参考にして欲しいと思っています。

新約聖書 使徒の働き 22章17~22節

こうして私がエルサレムに帰り、宮で祈っていますと、夢ごこちになり、主を見たのです。主は言われました。『急いで、早くエルサレムを離れなさい。人々がわたしについてのあなたのあかしを受け入れないからです。』

そこで私は答えました。『主よ。私がどの会堂ででも、あなたの信者を牢に入れたり、むち打ったりしていたことを、彼らはよく知っています。また、あなたの証人ステパノの血が流されたとき、私もその場にいて、それに賛成し、彼を殺した者たちの着物の番をしていたのです。』

すると、主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす』と言われました。」 人々は、彼の話をここまで聞いていたが、このとき声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と言った。

主が言われた

パウロに反対するユダヤ人の群衆に向かって語ったパウロの弁明の言葉ですが、今日の箇所でパウロは「主を見た。主が言われた。」と語りました。正直言って、このような弁明を受け入れろという方が難しいのではないかと私は感じます。ただ、相手は神様を知らない人たちではありません。「主」とは「主人」、「中心」という意味で、誰が中心なのかということを知っているユダヤ人に向かって語っているので、パウロは彼らの良心に訴えて、これは主から示されたと言えば、分かる人には「確かにその通りだ」と分かる話だと考えたのかもしれません。

説明責任

同じようにクリスチャンも「主に示された」ということを言うことがあると思います。本人にとっては確かにそうなのかもしれません。しかし、それを他人に受け入れろというのは無理があるように私は思います。自分ひとりの確信として、神様から与えられたという確信を持って進むことは良いことだと思いますが、それを他人に理解してもらうためには、聖書にこう書いてあるという理由だけでなく、相手が理解できる言葉と論理で説明する必要があると私は思います。それは決して人間中心ではなく、神様を中心にすることだと私は思っています。なぜなら、私たちに理性を与え、良心を与えたのは神様だと私は思うからです。信仰とは理性や良心も無視することではなく、むしろ尊重することだと私は思います。

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