日ユ同祖論とキリスト教

日ユ同祖論と日本人の信仰

日本人の民族的なルーツをユダヤ人に限定して考える日ユ同祖論者という人がいるのかどうか分かりませんが、これまでもお伝えしている通り、古代日本には多くの渡来人があったことが分かっており、日本人のルーツを単一民族と考えることはできないと私は思います。ただ、多くの渡来人の中にはイスラエル系渡来人があった可能性は高く、日本人の信仰、伝統、文化にはユダヤ人やメシヤニック・ジュー(イエスをメシヤと受け入れたユダヤ人)の影響があることは否定できないと考えています。

神道とユダヤ教

したがって、日本人はユダヤ人であると言うことは出来ませんし、神道はユダヤ教だと言うことも出来ないと思います。ただ、神道を含め、日本人の信仰、文化、伝統にはユダヤ人やメシヤニック・ジューの影響があることは否定できないと私は思います。

日本人とユダヤ人の関係についてのクリスチャンの態度

日本人とユダヤ人の関係について、肯定的なクリスチャンもいれば、否定的なクリスチャンもいるようです。肯定的なクリスチャンの中には、それを理由にして日本人にクリスチャンになるようにと伝道する人もいるのかもしれませんし、また、日本人は神道の熱心な信者になれば良いと考える人もいるのかもしれません。否定的なクリスチャンの中には、西欧キリスト教だけが唯一の救いの道であり、日本人も西欧キリスト教の信者にならなければならないと考え、日本人とユダヤ人の関係についても否定的だという人もいるのかもしれません。

大切なことは神様を中心にして生きること

繰り返しますが、神道を含め、日本人の信仰、文化、伝統にはユダヤ人やメシヤニック・ジューの影響があることは否定できないと私は思っています。だからと言って、日本人がいつも神様を中心にして生きているとも言えないでしょう。むしろ、日本人も自分の思いを中心にして生きている人が多くなっているのではないかと私は危惧しています。それゆえに日本人も多くの悩みや問題を抱えていると思います。大切なことはユダヤ人の影響を誇ることでも、西欧キリスト教徒になることでもなく、毎日の生活の中で、いつも神様を意識し、自分の思いではなく、神様の願いを中心にして生きることだと思います。それが「日本人の信仰と聖書について考える会」がお伝えしている内容です。

今日も聖書の続きを読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人々の記録であり、私たち日本人の信仰のルーツだと私は思っています。キリスト教、ユダヤ教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる上で大変参考になると思います。神様を中心にして生きるために、毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めいたします。

新約聖書 使徒の働き 21章37~22章5節

兵営の中に連れ込まれようとしたとき、パウロが千人隊長に、「一言お話ししてもよいでしょうか」と尋ねると、千人隊長は、「あなたはギリシヤ語を知っているのか。するとあなたは、以前暴動を起こして、四千人の刺客を荒野に引き連れて逃げた、あのエジプト人ではないのか」と言った。

パウロは答えた。「私はキリキヤのタルソ出身のユダヤ人で、れっきとした町の市民です。お願いです。この人々に話をさせてください。」 千人隊長がそれを許したので、パウロは階段の上に立ち、民衆に向かって手を振った。そして、すっかり静かになったとき、彼はヘブル語で次のように話した。

「兄弟たち。父たちよ。いま私が皆さんにしようとする弁明を聞いてください。」 パウロがヘブル語で語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。そこでパウロは話し続けた。

「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。

このことは、大祭司も、長老たちの全議会も証言してくれます。この人たちから、私は兄弟たちへあてた手紙までも受け取り、ダマスコへ向かって出発しました。そこにいる者たちを縛り上げ、エルサレムに連れて来て処罰するためでした。

ギリシヤ語とヘブル語を使いこなすパウロ

ローマの支配下において、当時の公用語、国際語はギリシヤ語であったのでしょう。パウロはギリシヤ語が使える国際人であり、単に言語が出来るだけでなく、ユダヤ人以外の文化背景を理解することができる人であったのではないかと思います。しかし、ユダヤ人にはヘブル語で語りかけました。ユダヤ人の文化を大切にしようとしている人だという印象がユダヤ人に伝わったのではないでしょうか。人々はますます静粛になったとあります。

相手への配慮

パウロは決して上から目線ではなく、相手の立場に立って物事を見ていることが窺えるのではないでしょうか。ヘブル語で話し始めたその内容もユダヤ人たちが共感できる内容から話していることが窺えます。相手を論破することではなく、全ての人に、特に愛する同胞の誤解を解いて、本当に神様を中心にして生きる生き方について知って欲しい。それはパウロの愛であり、それ自体が自己中心ではなく、神様を中心として生きる生き方ではないかと思わされました。自分の言い分ではなく、神様の思いを中心にして歩むための参考にしたいと思いました。

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