「日本人と日本文化」国柄は非常の時に現れる

伊勢 雅臣著「 世界が称賛する 日本人が知らない日本」に、このような話が掲載されていましたのでご紹介いたします。

「家がこんな状態なのに行くんですか」

宮城県の沿岸の都市、ある酒屋が今回の大地震と津波で壊滅的な打撃を受けた。片づけに忙しい店の若者。老いた母親が見守る。そこに制服の自衛官が来て、一枚の紙を示した。「召集令状」である。若者は元自衛官であり、万が一の時に召集に応ずる即応予備自衛官であったのだ。

若者は令状を示す自衛官に直立して「了解しました」と召集に応じる意思を示した。横からテレビのレポーターが「家がこんな状態なのに行くんですか」と聞く。

「そのために何年も訓練してきたんです。いま行かなければ、十年、二十年と後悔しますから」

そばにいた母が「人のためだから、行きなさい。うちのことは何とかするから」と声をかけた。(3・11大地震 石にしがみついてでも)『産経新聞』平成二十三年四月十八日より)

元自衛官で、万が一の際、自衛隊に復帰して現役並みの活動を期待されているのが、即応予備自衛官である。現在、約五千六百人いるなかで、今回の震災では四月中旬時点で、千三百人が召集されていた。

教育勅語に、理想の国民像として「一旦緩急アレハ義勇公に奉シ」(もし危急の事態が生じたら、義心と勇気を持って、公のために奉仕し)との一節があるが、まさにそれを絵に描いたような一場面である。(本からの引用は以上です。)

日本の教育

教育勅語のこの教えが日本を間違った戦争に駆り立てたと言う人もいますが、この教えが問題ではないと思います。私はこの教えは正しい教えであり、このような教育によって日本人の高い倫理観は支えられて来たのではないかと思います。

問題は強制であり、教育ではない

もちろん、このような教えを盾にして、人に何かを強制することは問題だと思います。しかし、日本の危急の時に、自分のことばかりでなく、日本のために自らを捧げるという意志は尊いものであり、私もそのような者でありたいと思います。そして、そのような人が多くいる国は強い国だと思います。

日本人の心

この自衛官も決して強制された訳ではありません。自ら、それが正しいことであって、そのような生き方をしたいという高い志を持っていることが分かります。あくまでもそれは本人の意志だと思います。これが日本人の心ではないでしょうか。

教育によって育まれて来た

日本人の高い倫理観は教育によって育まれて来たことを改めて思わされます。それは自己中心ではなく、神様を中心にする生き方であり、太古の昔から大切にされて来た生き方であり、教育によって親から子へと引き継がれて来た生き方なのだと思います。今こそ伝えたい日本人の心だと思います。

神様を中心にして生きる

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、実は私たち日本人の生き方のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、日本人として神様を中心にして生きるために聖書を読んでいただきたいと思っています。

新約聖書 マタイの福音書 5章33~37節

さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。

すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座(みざ)だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

「偽りの誓いを立ててはならない」

これは旧約聖書の「人がもし、主(わたしは在るという方)に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」という言葉を指しているのではないかと思います。

「決して誓ってはならない」

しかし、イエスは「決して誓ってはならない」と教えたことが記されていますが、それはどういうことなのでしょうか。たとえばこのような教えの解釈を巡って、キリスト教神学においては、何が正しい解釈なのかという議論が様々にあるようです。また、私たち自身も正しい解釈を求めてしまうところがあるように思います。

解釈なのか神様なのか

しかし、私は何が正しい解釈なのかということよりも、それぞれが自分の良心によって神様の声を聞くことが大切ではないかと思っています。神様は固定化された言葉や解釈ではなく、生きて働いて、今この瞬間に私たちの良心に直接語りかけている神様の声ではないかと私は思っています。

参考までに私が思う事

「決して誓ってはならない」というのは、文字通り一切誓ってはならないと言うよりも、誓ったから守らなければいけないとか、誓っていないから守らなくても良いということではなく、私たちが語る言葉は全て誠実でなければならないということではないかと個人的には思っています。皆さんはどう思われますでしょうか。神様の声を聞く上で参考にしていただければ良いと思っています。

大切なことは神様を中心にすること

大切なことは、自己中心ではなく神様を中心にすることであって、具体的にはそれぞれが良心で判断することではないかと思います。

いかがでしたか

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