【日本人と日本文化】そんなことは当たり前

野菜の無人販売

この写真は先日、野菜の無人販売所で見た光景です。そこにはねぎの苗一束500円の表示があり、瓶の中には千円札が入っています。さすが日本だなあと思って、思わず写真を撮ってしまいました。

さすが日本!

このような光景はまだ日本中で見られるでしょうか。海外であれば、お金はすぐに無くなってしまうのではないかと思いますが、日本では瓶のお金を取って行く人はいないのでしょう。

当たり前じゃないか

今年の正月、父に会った時に、(これまで私はクリスチャンとして、父に対しても宗教をやっていたという反省を込めて、)「大切なことは宗教をやることではなくて、正しく生きることだと思うんだよね。たとえば、無人販売のお金を、誰も見ていなくても、盗まないとかね。」というような話をしたら、「そんなこと当たり前じゃないか。」と言われて、「そうだね。当たり前だね。」そう思いました。

日本文化に染み込んでいる

でも、この日本人にとっての当たり前が、決して世界では当たり前ではないということも私は知っています。やっぱり日本人は、それは神様だと明確に意識している訳ではないかもしれませんが、神様の前に正しく生きるということが、もう生活の中に染み込んでいるというか、日本文化の中に引き継がれているので、今さら神様という名前を出すまでもない。そんなこと当たり前じゃないかということになるのだろうと思います。

日本人に「宗教」は要らない

曹洞宗の住職であり、元キリスト教徒(プロテスタント)のドイツ人、ネルケ無方という方が、その著書「日本人に『宗教』は要らない」でこのように書いています。

曹洞宗の開祖である道元禅師は、「坐禅だけでなく、日常生活も大事である」と説かれました。日々の一挙手一投足に「仏性」が宿るとされたのです。料理や掃除の作法からトイレの使い方まで、生きていく上での「実践」に重きを置いています。

この日常の実践を、身をもって行っているのが、日本人です。道元禅師が大切にされた日々の生活(仕事や家事)を黙々とこなし、人とのつながりを大切にし、自然と共生する生き方を無意識に実践しているのです。日本人は自覚せずに、遥か昔から、宗教的な行いと心を持ち合わせているのではないでしょうか。(中略)

書名である『日本人に「宗教」は要らない』の真意は、まさにそこにあります。日常生活の中に、仏教や神道の教えが根付いているからこそ、日本人は宗教に無関心だったのではないでしょうか。日本人は、宗教を考える必要がなかったのです。(本からの引用は以上です。)

神様を中心とした生き方

ネルケ氏は「仏教や神道の教え」と言っていますが、それは「神様を中心とした生き方」だと私は思います。日本人は太古の昔から、自己中心を退け、神様を中心にして生きて来たのだと思います。それが日本人の心であり、人間の尊厳だと私は思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、私たち日本人の生活と深い関係があると思います。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心に触れるために聖書をお読みください。

新約聖書 マタイの福音書 9章14~17節

するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。

だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

断食

ここで言っている「断食」とは健康のための「断食」ではなく、宗教的な「断食」のことだと思います。宗教に熱心であれば「断食」をするのではないか。なぜ、イエスの弟子たちは「断食」しないのか。「断食」しないなんて、敬虔な宗教とは言えないのではないか。もしかしたら、「断食」しないなんて「ズルい」と思ったのかもしれません。

それは悲しみの表現

イエスの答えを見ると、「断食」は宗教的に敬虔だという理解はないように思います。それは悲しみの表現だと言っているのではないでしょうか。花婿とは自分のことを指しているのかもしれません。取税人や罪人を含め、一緒に飲み食いして楽しんでいる今は悲しみの時ではない。花婿が取り去られるとは、ご自分の十字架の死を言っているのでしょうか。その時には「断食」して悲しみを表すでしょう。

新しい生き方と古い生き方

新しいものと古いものを一緒にすれば、どちらも駄目にしてしまう。全部、新しくしなさいというたとえだと思いますが、何を指して新しいもの、古いものと言っているのでしょうか。新しいものとは神様を中心にした生き方のことかもしれません。それは良心に語り掛けられる神様の言葉に忠実に従って生きる生き方であり、決して禁欲主義でも、宗教的な生活でもないということなのかもしれません。

神様の声に従って生きる新しい生き方

当時のユダヤ人たちはユダヤ教の戒律、伝統を守ることが正しい生活だと思っていたのかもしれません。だから、なぜ「断食」しないのか、という疑問を感じたのではないでしょうか。しかし、悲しい時には「断食」するが、喜んでいる時に「断食」する必要はない。それは、それぞれが良心で判断できることではないでしょうか。宗教ではなく、良心に語り掛けられる神様の声なき声に従って生きる。それが新しい生き方だと言っているのかもしれません。

いかがでしたか

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの人に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、お知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いします。

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

■お知らせ■

2017年5月11日(木)19:00~20:00 泉パークタウンタピオ(仙台市泉区寺岡6丁目5-1)南館1階パークタウンスタイルで「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」と題してお話しいたします。入場無料、予約不要です。ぜひお出で下さい。詳しくはホームページのインフォメーションをご覧ください。