【人生の目的】生きるのが面倒くさい

「生きるのが面倒くさい」と思ったことはありますか。社会との接触や責任が増えることに対して負担を感じ、何もかも面倒くさく思えて、そこから逃れたいという思いは誰でもあり得ると思います。

また、内心やってみたい気持ちはあっても、いざやるとなると一歩を踏み出せない。前途有望な若者なのに、まるで老い先短い老人のように、守りに入った生き方をしてしまう。そんな傾向を示す人が、増えているそうです。

死んでしまいたいというほど切羽詰まっている訳ではありませんが、せっかくの人生を、生きながら降りてしまっているような生き方をしてしまう。今日は「生きるのが面倒くさい」というサイトから、その原因と対策をご紹介いたします。参考にしてみてください。

「面倒くさい」の背景にある3つのパーソナリティ

1.自己愛性パーソナリティ:完璧で理想的な自分や華々しい人生を望み、それ以外の不完全な自分や平凡な人生なら、生きるに値しないと考えてしまう。完璧な理想にとらわれ、自分が特別でなければ満足できない傾向は「自己愛性」と呼ばれる。

2.境界性パーソナリティ:生まれてきたことや自分が存在すること自体に意味や価値を見出すことができず、虚しさや絶望に陥ってしまう。自己否定を抱え、自分は誰からも愛されないと思い、自己破壊的な行動をとってしまう傾向は「境界性」と呼ばれる。

3.回避性パーソナリティ:生きることに伴う苦痛や面倒ごとから逃れようとする傾向で、もっとも本来的な意味で、「面倒くさい」心理が病理の根本にある状態。人の世の煩わしさから逃れたいという願望をもち、現実の課題を避けようとする傾向を「回避性」という。

以上のようなパーソナリティは誰しも持ち合わせているもので、決して特別異常とされるようなものではありません。 自身の生活の中における「面倒くさい」を見つめ直し、自分はどのパーソナリティ傾向が強いのか理解すると、「面倒くさい」を「楽しい」に変化させる方法を見つける一助になるかもしれません。(サイトからの引用は以上です。)

問題の根源は「自己中心」

「自己愛性」とは「自己中心」でしょう。また、自分の存在意義は自分の中にはなく、神様の中にあるものですから、神様を中心にしなければ、自分の存在意義も自覚できないと思います。「回避性」も「自己中心」だと思いますが、解決は神様を中心にしてまず一歩踏み出す。そうすれば生きる喜びと力を感じることができるようになると思います。結局、「自己中心」が生きる力も喜びも奪い、神様を中心にすることで解決すると思います。

神様を中心にする

「今、目の前にある時間をもっと大切に使いたい。これは自分の人生なのだから。自分の好きに使っていい、自分のための時間なのだから。 そう思えたとき、あれほど自分を重く覆っていた面倒くささなど、どこにもなくなっていることに気づくでしょう。 そのためには、自分が決めた自分の人生を生きようと決意すること。そして、一歩だけ踏み出してみること。それだけでいい。」とこのサイトは締めくくっています。それは神様を中心にすることだと私は思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は日本人の生き方に深い関係があります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マタイの福音書 10章5~15節

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

行って、『天の御国(みくに)が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。

もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりは罰が軽いのです。

自分に与えられている対象

弟子の中でも特別に選ばれた12人は使徒と呼ばれました。イエスは彼らを送り出すにあたって注意事項を与えました。もちろん、神様を中心とした生き方は全人類に伝えるべきメッセージだと思いますが、彼らの対象はイスラエルでした。自分に与えられている対象に集中することは大切なことだと思います。

ただで与えなさい

「天の御国」とは、神様を中心として生きる国だと思います。また、ただで伝えるようにと命じられました。これは商売ではありません。しかし、生活費は自分で持って行くのではなく、そこでいただくようにということでしょうか。托鉢にも似ています。

ソドムとゴモラ

ソドムとゴモラとは旧約聖書に出てくる町の名前ですが、どちらも神様から離れ、悪が蔓延した町であったため、天から火が下り、神様から滅ぼされた町です。もし、神様を中心にして生きるようにというメッセージを拒絶し、自己中心を改めないなら、ソドムとゴモラよりも重い罰を受けるとイエスは警告したのだと思います。

いかがでしたか

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの方に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひお知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

■お知らせ■

2017年5月11日(木)19:00~20:00 泉パークタウンタピオ(仙台市泉区寺岡6丁目5-1)南館1階パークタウンスタイルで「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」と題してお話しいたします。入場無料、予約不要です。ぜひお出で下さい。詳しくはホームページのインフォメーションをご覧ください。