【日本人と日本文化】日本の学校教育に見られる宗教心

日本人の日常生活には日本人の宗教心が顕著に見られると元クリスチャン(プロテスタント)のドイツ人で曹洞宗の住職をされているネルケ無方氏はその著書「日本人に『宗教』は要らない」の中で指摘していらっしゃいますので、ご紹介いたします。

日本の学校教育

日本人の宗教観は学校教育でも顕著に現れている。それは、給食や部活動、掃除である。これら日本の学校でごく当たり前に行われていることが、欧米ではあまり行われていない。

ドイツの学校は勉強をするところ

ドイツでは、学校はもっぱら勉強をするところだ。子供たちは朝日が昇る時間には学校へ行く。正午には授業が終わるから、子供たちは自宅に帰って昼食を食べる。日本のように教師と生徒が一緒に教室で給食を食べるということはない。

ドイツの子供たちの生活

午後は、子供たちが各々自由に過ごす。家で勉強したり、外で遊んだり、一日の半分を子供たちが自分で決めて行動する。ドイツの学校でもサークル活動やスポーツをすることはあるが、基本的には子供たちが自主的にチームを作り、地域で行うものだ。学校の部活動は、日本ほど重要視されていない。(中略)

宗教の時間

ドイツの学校では、掃除は用務員がする。子供たちが学校で掃除をするということはない。もちろん、教師は一切しない。反対に、ドイツにあって日本にないものは何か。それは宗教の時間だ。(中略)

宗教の実践

日本には宗教の授業がないが、(中略)日本の学校では給食が出る。給食の前には全員で「いただきます」と言い、食べ終わったら「ごちそうさまでした」と言う。部活動で、仲間の大切さや協調性を体で覚える。自分たちが使っている教室やトイレは自分たちで掃除をする。これは、禅の教えを実践していることなのだ。

頭で理解するだけでなく

子供たちが当たり前のことのようにしている給食や掃除などは、とても大切な行いである。ドイツの子供たちは聖書の教えを授業で学ぶが、それが行動に反映されていない。イエス・キリストの教えを頭に詰め込んでも、その教えを実践する機会が学校内にはまずない。(本からの引用は以上です。)

大切なことは実践

ネルケ氏が指摘するように、大切なことは単なる知識ではなく、実際の生活だと私も思います。それは禅の教えの実践だとネルケ氏は言っていますが、私の言葉で言えば「神様を中心とした生き方」ということであり、日本の学校教育の中に、伝統的に「神様を中心とした生き方」が根付いているということだ思います。それは単なる形式ではなく、普遍的な価値を持つ、人として大切なことを日本人は継承して来たということだと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史であり、記録だと思います。また、私たち日本人の生き方はユダヤ人と聖書に大きな影響を受けていると思います。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心とした日本人の生き方を知るためにも聖書をお読みください。

新約聖書 マタイの福音書 13章44~52節

天の御国(みくに)は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい」とイエスに言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」

天の御国の価値

これは群衆に向かって語られたイエスの言葉です。「畑の宝」と「すばらしい真珠」のたとえに共通することは、「持ち物を全部売り払って買う」ということではないでしょうか。神様を中心にして生きる「天の御国」は、それほどの価値があるということではないでしょうか。

この世の終わりに

また、「地引き網」のたとえでは、この世の終わりが教えられていますが、神様を中心にして正しく生きた者と自己中心に生きた者は明確に区別される時が来るということなのかもしれません。それは文字通りこの世の終わりということなのか私には分かりませんが、少なくとも誰でもこの世の生活を終える時は来るでしょう。その時に悔いのない人生になるのか、後悔することになるのか、それははっきりするだろうと思います。

一家の主人のように

そのことが分かって、神様を中心にして生きる「天の御国の弟子となった学者」は、何が正しいことで神様に喜ばれることなのか、何が悪いことで神様が忌み嫌われることなのかを判別することができるようになるということを教えているのではないでしょうか。

神様の声を聞く

もちろん、これが聖書の正しい解釈だと主張するつもりはありません。私は聖書の正しい解釈よりも、それぞれが神様の声なき声を良心の耳で聞くことが大切ではないかと思っています。神様はあなたの良心に何と語り掛けているでしょうか。その声に忠実に生きることが大切ではないかと思っています。

いかがでしたか

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今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。