【人間関係】相手に肯定感を与える

良い人間関係を築くために大切なことは、自己中心ではなく、かといって相手を中心にするのでもなく、神様を中心にすることだと私は思います。それは神様の前に自分をしっかりと確立し、相手の反応に振り回されないことですが、相手への配慮をしてあげることでもあると思います。そんな具体的な相手への配慮について、今日も「『職場の人間関係・改善術』苦しみ続けた私に効果があった24の方法」というサイトからご紹介いたします。

自己肯定感を満たす

心理学でも言われていますが、人は常に自分の存在を肯定されたい、自分は必要な人間だと確信していたいという承認欲求が強いため、自分を肯定してくれる人を特別な人だと認識します。具体的には以下の行動を行いましょう。

  • 褒める
  • 認める
  • ねぎらう
  • 励ます
  • 感謝する
  • 肯定的な感情を伝える(ありがとう、嬉しい、楽しいなど)など

誰かに辛く当たる人の多くは、自分の心が満たされていない。あるいは不安や怖れ、自己否定、コンプレックス、怒り、悲しみ、身近な人間関係の不和などで、心が満たされるどころか、カラカラに乾き、悲鳴を上げているケースがほとんどです。相手のサポーターになったつもりで自己肯定感を満たしてあげましょう。

積極的な傾聴

積極的な傾聴をしてくれ、心地よく自分の話を聞いてくれる存在は、相手にとって特別です。慣れた人なら2、3時間あれば、初対面で心を許し、何でも話せる特別な存在になることができます。具体的なポイントを以下にご紹介します。

  1. 以前にご紹介したラポール(信頼関係)を築く
  2. 相手の話を肯定しながら、徹底して話を聴く(会話全体の7割~8割は聴く)
  3. 「それってどういうことですか?」、「へぇ~」、「もう少し詳しく聞かせてください」など、気持よく話せるようなリアクションをする
  4. 相手の話を掘り下げる

そして話をしながら、あなたは何を話しても受け入れてくれる、あなたは信頼できて口が固いと分かるほど、より深く、コアな話をできるようになります。

  • 普段、人には言えない話
  • 誰にも話したことのない過去
  • 言いたくても言えなかった内緒の話
  • 恥ずかしい話、コンプレッックス
  • 過去の失敗談(インパクトの強いもの)など

こういう話ができた時、相手はあなたに対してかなり心を開いていると考えて大丈夫です。(サイトからの抜粋引用は以上です。)

聖書を読みましょう

人はこのような配慮をしてくれる人に心を開く者だと思います。神様を中心にして、人の気持ちを分かってあげることが大切ではないでしょうか。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は私たち日本人の生き方、人としての生き方に深く関係していると思います。キリスト教という宗教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書を読んでみていただきたいと思っています。

新約聖書 マタイの福音書 12章9~14節

イエスはそこを去って、会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。

イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」

それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。

宗教の規定か良心か

病気をいやすという行為もまた労働にあたるということで、安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)に行ってはならないとユダヤ教では規定されていたのだと思います。明らかにイエスはそのような宗教的な戒律の解釈ではなく、彼らの良心に働きかけ、神様の声を聞くように語りかけていると思います。

神様の声を聞く

もちろん、宗教的な戒律もまた軽んじるべきではないと思います。そこには本来の意味があると思います。しかし、それが形式化、形骸化して行くと、その本来の意味を失ってしまうことになると思います。大切なことは宗教ではなく、今この瞬間に生きて働いている神様の声を良心で聞くことだと思います。

神様を中心にする

病気をいやしてあげること。それは良いことだと思います。安息日であっても、良いことをすることは正しいことだとイエスは教えました。宗教ではなく、神様の声を良心で聞いて、それを実行すること。それが神様を中心にすることだと思います。

宗教の問題

ユダヤ教の聖書学者であるパリサイ人は良心に語り掛けられる神様の声ではなく、宗教を中心にしたのだと思います。彼らは神様の声を退け、イエスを滅ぼすことを考えました。それは正しいことでしょうか。それは正しくないということは誰の目にも明らかだと思います。宗教にはこのような問題があると私は思います。

いかがでしたか

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「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの人に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、お知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

■お知らせ■

2017年5月11日(木)19:00~20:00 泉パークタウンタピオ(仙台市泉区寺岡6丁目5-1)南館1階パークタウンスタイルで「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」と題してお話しいたします。入場無料、予約不要です。ぜひお出で下さい。詳しくはホームページのインフォメーションをご覧ください。