【子供の教育】興味関心で伸ばす

子供のためになるなら、本人が嫌がってもやらせるべきか。

本当に子供のためになるなら、やらせるべきだと思います。しかし、本当に子供のためになっているのか、良く見極める必要があります。善悪に関することであるなら、子供の好き嫌いに関わらず、正しいことをさせ、悪いことは制止すべきだと思いますが、そうでないことは、子供の興味関心で伸ばすと良いと思います。「『親がやらせたいこと』に潰される子どもたち」という記事からご紹介します。

絵を描くのが大好きだったAさん

小学5年生の女の子・Aさんは絵を描くのが大好きでした。でも、お母さんは「絵なんかよりもっと問題集をやりなさい」と言っていました。そんなある日、私は学級懇談会で子どもが好きなことを応援することの大切さを話しました。すると、お母さんは大いに納得してくれて「そんなに絵が好きなら応援しよう」と決意しました。それからは、本物の絵を見に美術館に連れて行ったり、図書館で絵の本を借りたりなど、いろいろ応援し始めました。

ぐんぐん上達しました

あるとき、お母さんは色数の多い色鉛筆を買ってあげました。これが非常によかったようで、Aさんは絵を描くのがますます好きになり、ぐんぐん上達しました。やがて、クラスメートたちが「絵がうまいね」と褒めてくれるようになりました。ある日、1人のクラスメートに頼まれて猫の絵を描いてあげたところ、それが評判になり、休み時間になると絵を描いてもらいたい子たちがAさんの周りに集まるようになりました。

様々な効果

Aさんはもともと消極的で友達も少なく、授業で発表することもありませんでした。片付けが苦手で、朝もお母さんに起こされてもなかなか起きなかったのですが、毎朝自分で起きて、かなり早く学校に来るようになりました。なぜなら、絵を描いてもらいたい子たちがほかのクラスからも来るようになって、休み時間だけではさばききれなくなっていたからです。

友達もたくさんでき、生活全体に張り合いが出て、毎日明るく楽しく生活できるようになりました。しばらくしたら授業中に発表するようにもなりました。絵のことで自信がついて、いろいろな面で好循環が始まったのです。

今度は手芸

6年生になってしばらくしたら、Aさんは絵をあまり描かなくなりました。そのことを聞いてみると、「絵は飽きちゃった。今は手芸がいちばん好き」とのことでした。彼女は、すでにそのときは手芸に熱中していて、休み時間には5、6人の女子が1カ所に集まって手芸の小物づくりに没頭していました。お母さんは、最初は抵抗があったようですが、潔く絵のことはあきらめて、手芸のことを応援してくれました。

福祉団体に寄付

ある日、彼女は小学生新聞を読んでいて、手芸の小物をPTAバザーで売るというアイデアを閃(ひらめ)きました。それで、友達を誘って役員さんに頼みに行き、許可を得ました。バザー当日も「いらっしゃい。いらっしゃい」と声を張り上げて売りまくり、収益金を福祉団体に寄付しました。この一連の過程を、すべて彼女がリーダーになって実行しました。数年前なら考えられないことでした。これくらい子どもというものは変わることがあるのです。そのきっかけは、大好きな絵をお母さんが応援してくれて、絵のことで自分に自信が持てるようになったことです。(サイトからの引用は以上です。)

大切なことは見極め

だからと言って、何でも子供を中心にすれば良いということではないと思います。自己中心や悪は戒めなければなりません。しかし、神様を中心にすることは決して型にはめることでも、一方的な価値観を押し付けることでもありません。興味や関心というものは神様から与えられるものだと思います。そこに神様の力が働いていると私は思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の実践の記録であり、私たち日本人の心の原点です。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心に触れるために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マタイの福音書 23章23~28節

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

神様の心

「はっか、いのんど、クミン」とは律法に定められた捧げ物なのでしょう。それは確かに良いことですが、それをやっているだけで、本当には神様の願いや思いから離れているとしたら、それは問題です。正義、あわれみ、誠実は神様の心であり、はるかに重要なものだとイエスは教えています。

神様の心を中心にする

外側は熱心に見えたとしても、心は自己中心であれば、いったいその宗教に何の意味があるのでしょうか。大切なことは、自己中心を退け、神様の願いや思いを中心にして正しく生きることだと思います。神様を中心にしているなら、それは必ず外側にも現れて来るとイエスは教えたのだと思います。

いかがでしたか

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「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心として生きる幸いを多くの人たちに知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、知り合いの方にもお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。