【日本とイスラエル】青森県新郷村「キリスト祭」に行って来ました(2)

「キリスト祭」は新郷村観光協会の主催で行われており、スタッフは新郷村の職員の皆さんだと思います。背中には十字架がプリントされたお揃いのジャンパーを着ていました。

新郷村のスタッフ

定刻の午前10時になり、厳粛な雰囲気のアナウンスが入り、新郷村の村長の挨拶が始まりました。挨拶が終わると、来賓祝辞と続きます。青森県知事、国会議員、県議会議員などが来賓として招かれているようです。続いて神官による神事が行われます。祝詞が奏上されますが、この村で天寿を全うされたとするイエス・キリストの霊を慰める旨が語られます。

 

招待者が玉串を捧げると、奉納舞が田中獅子保存会の方によって舞われます。レベルの高い品のある舞でした。

 

続いて短歌の表彰式が行われました。これは公園内に設置された短歌ポストに寄せられた中から選ばれたものだそうです。続いて「ナニャドヤラ」の奉納舞です。

 

歌詞は「ナニャドヤラ ナニャドナサレノ ナニャドヤラ」とひたすら繰り返されているようですが、日本語としては意味不明です。川守田英二博士はヘブライ語で意味を解釈することができると言ったようです。

イエス・キリストが戸来村で天寿を全うしたかどうかはともかく、古代ユダヤ人がこの地に渡来して居住した可能性は高いと私は思います。この歌もヘブライ語の歌なのかもしれません。

キリストの里伝承館には、ユダヤ人やキリスト教の影響を思わせる数々の伝統がこの村にはあることが展示されていました。たとえば、生まれて間もない赤ちゃんを初めて外に出す時に、赤ちゃんの額に墨で十字を書くという習わしが古くからあったそうです。また、この村ではエジコと呼ばれる藁で編んだ丸い籠をゆりかごにして赤ん坊を入れて育てたそうですが、これもまたユダヤ人が使う「ヨーラン」にそっくりだそうです。

額に十字のある赤ちゃん

また、袖なし(ちゃんちゃんこ)の襟にダビデの紋章を縫い付けるという風習は昭和中期頃まではあったと言います。そして、この村に伝えられる農業の作業着はパレスチナあたりの農夫や牛追いが身に着ける作業着に似ており、女性が風呂敷をかぶって顔を覆うこともユダヤの風習から来たものではないかと言われているそうです。

新郷村に伝わる農作業着

八戸という地名も、もともとは旧約聖書の神を表す「ヤーヘー」だったのではないかという説もあり、戸来村(へらいむら)も、「へぶらいむら」が訛ったのではないかとも言われています。この地には早くからユダヤ系渡来人が居住したということは十分に考えられることだと私は思います。

それにしても「ナニャドヤラ」の歌も太鼓の演奏も踊りもレベルの高いものであり、格調高いキリスト祭だと感じました。明日は「キリストの墓」の近くにあるピラミッドの跡ではないかと言われる「大石神ピラミッド」にも行って来ましたのでお伝えしたいと思います。

 

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史の記録であり、日本人の生き方にも深い影響を与えていると考えられます。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる日本人の心に触れるために聖書を読んでいただきたいと思います。

新約聖書 マタイの福音書 20章1~16節

天の御国(みくに)は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。

それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』彼らは出て行った。

それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』

そこで、五時ごろ雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。

自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。』

気前のいい神様

このたとえ話の主人とは神様のことでしょう。ポイントは神様は気前がいいということではないでしょうか。財産や実績や能力に関係なく、神様は私たちに同じ恵みを与えてくれる。そのあまりの気前良さに、財産があって、能力があって、実績のある人ほど、ねたましく思って、かえって不平不満で一杯になってしまう。これでは本末転倒だと思います。

神様の恵みに感謝して生きる

神様を中心にして生きるとは、このような神様の気前良さを中心にして、その恵みに感謝して生きることではないでしょうか。不平不満は人間中心、自己中心ではないでしょうか。

いかがでしたか

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今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。