【子供の教育】親の教育も必要!?

「子供の教育も必要だけど、親の教育も必要だなーって思った話」という記事をご紹介します。

子供の遊び場での出来事

いつものように、子どもの遊び場で1歳の娘と一緒に遊んでいました。すると、泣いている子どもと一緒に、母親が一人の4歳くらいの男の子を叱っている。

「どうして他の子に暴力を振るうの?自分がされて嫌なことは他の子にもやっちゃだめでしょ?お母さんはどこ?」

どうやら、4歳くらいの男の子は他の子を泣かせてしまって、他の子のお母さんに怒られている。でも、その男の子のお母さんはいない。来ない。どうやらその男の子の2歳くらいの妹も兄に叩かれたようで、泣いている。

「この子は妹??叩いちゃダメでしょ!謝りなさい。」

謝ったのかどうなのかはわからないが、ある程度叱ってその場はおさまった。数時間後、今度は1歳の私の娘がその男の子のもとにハイハイして突っ込んでいった。しかし、いきなり男の子に頭突きをされてしまった。しかも一度じゃない。何度も、何度も。私は慌てて駆け寄った。

「うぇーん!!!」

娘は泣いた。私の顔を見ながらとても悲しそうに泣いた。普段予防接種しても泣かない娘だが(!)、やはり痛かったし驚いたようだ。それと同時にまた彼の妹もどつかれて、泣いている。娘を抱きかかえながら、彼を注意した。

ありえない!

子どもとはいえ、人が嫌がることはやってはいけないし、叱らないとこの子の暴力癖は治らない。でも、お母さんはいない。来ない。放置されている。見ると、後ろの飲食スペースでママ友とお茶している。私が見る限りその母親が子どものところに来たのは、帰る際に帰るよと、話しかけた時だけだった。

 これを見てあなたはどう思いますか

遊び場だし、親も一応近くにいるので、子どもが自由に遊びまわってもいいスペースでの出来事です。でも、他の子を叩いて泣かせるなんて、だめでしょ。子どもとはいえ、ダメなことはダメ、叱らなきゃダメです。放ってる場合じゃない。当たり前です。

親の生き方、考え方
親のそういった道徳心とか、思っていることとかって、子どもは言葉はわからなくても伝わってるんですよね。なんというか親の生き方、考え方が反映しているなあと。0歳の子どもであっても、親が驚いた表情をすると、驚いた表情をして泣いたりもするし、逆に子どもが泣いたら親の顔を見て安心を求めて、優しく抱くとすぐに泣き止んだりする。ですよね?だから子どもは親の態度を読み取ってるなあ、ってつくづく思います。
親の価値観はどうやったら変わるのか
親の考え方、親の生き方、親の行動、親自身が経験してきたもの全てが子どもにアウトプットされると思っています。それをどうやって変えるか、となるとずいぶん難しいものになるのですが、刺激的な人に出会う、考え方が変わる経験をする、心を動かされる何かに出会う、この辺がキーポイントだと思うんですよね。(サイトからの引用は以上です。)
人の迷惑にならないように
もちろん、親が人生経験を深めることは大切だと思いますが、私はそれほど難しいことでもないと思っています。昔から日本では「人様の迷惑になるな」と言われて来たと思います。今の世代の親自身がもはやそのように育てられて来なかったのかもしれませんが、これは大切な日本人の教育だったと思います。この一言に日本人の良識、常識、高い国民性は支えられていたと思います。それは神様を中心にした生き方だと思います。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史の記録であり、実は日本人の生き方にも深く関連していると思います。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書を読んでいただきたいと思います。
新約聖書 マタイの福音書 19章1~12節
イエスはこの話を終えると、ガリラヤ湖を去って、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた。すると、大ぜいの群衆がついて来たので、そこで彼らをいやされた。

パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」

弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」

宗教の教えではなく良心で判断すること

パリサイ人は真実を求めていたのではなく、イエスの律法解釈を試したのだと思います。律法解釈に基づいた正しい離婚とは何かという質問です。しかし、宗教的解釈ではなく、神様の願いを中心にするなら、正当な離婚というものがある訳ではないとイエスは答えたのではないでしょうか。ここでイエスは「不貞のためでなくて」と言っていますが、それは「不貞」なら良いとか悪いとかそういうことではなく、やむを得ない理由というのは確かにあると言うことだと思います。それは宗教の教えによるものではなく、良心で判断することだと思います。

イエスの教え、日本人の心

それは聖書のことばを解釈するとか、宗教の戒律によって判断するということではなく、神様の願いや思いを中心にして、良心で判断することが大切だと思います。それがイエスの教えであり、日本人の心だと思います。

いかがでしたか

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「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いについて、多くの人にお伝えできるように、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。皆様のお知り合いの方にぜひお渡しください。ご協力をよろしくお願いします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。