【キリスト教・宗教】祭りや文化に神々が宿る国

日本人と神様は一体

日本人の生活は神様を中心とした生活であり、祭りも文化も神様と切り離して考えることはできないでしょう。日本人はあまり意識していないかもしれませんが、欧米人から見れば、日本人と神様は切っても切れないと見えるだろうと思います。曹洞宗の住職になったドイツ人、ネルケ無方氏の著書「日本人に『宗教』は要らない」からご紹介いたします。

日本の祭り

日本の祭りや文化にも日本人の宗教観が反映している。日本の祭りは、仏教的な意味合いより収穫を祝う神道の影響が強いはず。

だんじり祭り

欧米人から見て珍しいのは、だんじり祭り。「わっしょい、わっしょい」という掛け声を発しながら裸で神輿を担ぐ。生命力そのものが良いとされている神道の祭りだ。男性器や女性器のご神体を拝む祭りも、子孫繁栄を願ったり、強い生命力を崇拝する形で表現されたものだ。

性に関する見方

キリスト教では性に関するものを宗教から排除しようとするので、欧米人から見ると、日本の祭りは野蛮に感じることもある。しかし人間は、両親が性的な関係を結ばなければ、その子が生まれないわけだから、性行為は自然なことだ。子孫繁栄のために性的な行いをしなければならない。そのためには男性器や女性器が必要であって、元気でないといけない。

性のあるべき姿

食べることは大事だが、セックスは汚れたもの、あってはいけないというのは逆に不自然な考え方である。赤ちゃんが生まれたら誰もが「おめでとう」と言うが、男女が結ばれると「いかがわしい」と言う。僧侶は本来結婚してはいけないし、性的な行為もしてはいけない。キリスト教も仏教も、あまり性のあるべき姿について語らないが、神道のほうではそれを肯定し、祭りとして残っている。(本からの引用は以上です。)

それは神様が与えた恵み

性行為は神様が人間に与えたものであり、人間中心に用いるのではなく、神様を中心に用いるなら、私たちに豊かな恵みを与えるものだと思います。問題は性行為ではなく、不品行だと思います。性行為そのものをいかがわしいと考えることは間違っていると私は思います。

大切なことは神様を中心にすること

確かに神様は性行為に伴う羞恥心を与えたと思います。それによって性行為が不当に乱用されることがないようにしたのだと思います。大切なことは、自己中心を退け、神様を中心にして、正しく用いることだと思います。そういう意味で、日本人の文化や伝統の中に、神様の思いが引き継がれていることは確かだと思います。しかし、日本人だから大丈夫ということではなく、日本人も神様を意識しないと、自己中心や不品行になる危険性があると思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史の記録であり、私たち日本人の信仰と文化のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マタイの福音書 24章23~28節

そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。

人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。死体のある所には、はげたかが集まります。

惑わされてはいけない

世の終わりはいつ来るのか。その時にはどんな前兆があるのか。弟子たちの質問に、世の終わりはすぐには来ないと答えて言われたイエスの言葉の続きです。ここでイエスはずいぶん長く弟子たちに語っています。今日の箇所はその一部ですが、ポイントは惑わされてはいけないということだろうと思います。

誰がキリストか

「選民」とは、神様に選ばれた民ということですから、ユダヤ人のことを指して言っているのでしょう。実際にA.D.132にバルコクバという人がユダヤ独立戦争のリーダーとして立ち上がり、当時のユダヤ教指導者たちはバルコクバこそユダヤ人が太古の昔から待ち望んできたメシヤ(ギリシヤ語ではキリスト)だと主張したようです。

いなずまのよう

「人の子」とは、メシヤのことを指して言う言葉だったようです。神様から特別な権威が与えられたメシヤが来るのは、ある一部の人しか知らないような秘密の出来事ではなく、「いなずまが東から出て、西にひらめくようだ」と言っていますので、全ての人に、一瞬にしてそれと分かるようにして来るということではないでしょうか。

生きている神様を中心にする

「死体に集まるはげたか」とは何を象徴しているのでしょうか。自己中心を退けて、神様を中心にして生きる幸いとは、ある特定のグループの集まりとか、宗教とか、そういうことではないということを言ったのかもしれません。大切なことは、死体に集まることではなく、目には見えませんが、今も生きて働いている神様を中心にすること。神様の声は、誰でもその良心で聞くことができるのだから。そういうことを言ったのかもしれません。

いかがでしたか

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「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの方に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひお知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。