【子供の教育】退屈な夏休みは子供を成長させる!?

複数の心理学者・教育学者が子供に対する「退屈の勧め」を説いているそうです。夏休みを有意義に過ごさせようと欲張る親たちの過剰なサポートはかえって子供のためにならないこともあるようです。「子どもは夏休みに退屈な方が健全に成長できる」という記事をご紹介いたします。

成長のチャンスを奪わないように

子どもの教育について研究する心理学者のリン・フライ博士は、「『大人になる』ということは、『自分自身のスケジュールをコントロールして、幸せに感じられるような時間で埋め尽くせるようになる』ということなのです」と述べています。もし親たちが子どもの休暇をすべて埋めてしまうならば、子どもたちは自分でこの術を学ぶことがなくなってしまう。これでは子どもの成長の芽を親たちが刈り取ってしまうというわけです。

「退屈」の積極的意義

イーストアングリア大学のテレサ・ベルトン博士は、「退屈は、真の創造性をもたらし得る『内在的な刺激』を発達させるのに不可欠なものである」と述べています。同じく、精神分析学者のアダム・フィリップス氏は、「退屈する能力は、子どもの成長の成果である」と述べています。フィリップス氏によると、大人は子どもにさまざまなことに興味を持ってもらいたいと考えるあまり、興味があるものを探すための時間を軽視する傾向にありがちですが、興味のあることを自分で探すために、退屈の過程に時間を費やすことが不可欠だとのこと。

退屈が子供を自立させる

退屈する時間は、ある意味では苦痛の時間です。しかし、この心理的な負担は子どもたちの成長に大切なもの。フライ博士は、「退屈はいけないことだと思っているかもしれませんが、退屈しても問題はありません。子どもたちが、何かを成し遂げるための動機付けをできるようになるためには、退屈する方法を学ぶ必要があります。退屈することは子どもを自立させる術なのです」と述べています。フライ博士は、退屈を学ばせる良い機会である夏休みに、子どもたち自身に「やりたいことリスト」を最初に作らせることを推奨しています。もしも子どもたちが「退屈だ」と訴えた場合、親はリストを見せて「これが私のしたいことです」と声を出して読み上げるのが良いそうです。(記事からの引用は以上です。)

神様を中心とした正しいバランス

せっかくの夏休みですから、親子で一緒に過ごす時間もとても大事だと私は思います。問題は子供の時間を全て親が決めてしまうということでしょう。子供自ら考える力を育むためには、そのための時間を与える必要があることは確かだと思います。それが親中心でもなく、かといって子供中心でもなく、神様を中心とした子供の教育だと思います。何かの主義主張ではなく、また新しい学説でもなく、良心に与えられる神様からの思いを中心にして、正しいバランスを保つように心がけてください。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は私たち日本人の生き方のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして正しいバランスを持った生活をするために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マタイの福音書 26章47~56節

イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。

イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。

イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」

そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。

「何のために来たのですか」

イエスはユダにそう問いかけました。何のためにこんなことをするのでしょうか。どのような主義主張を持って来て、自分の行為を正当化しようとしたとしても、正しい人を捕らえて殺すことを正当化することはできないと思います。それは自己中心であり、神様の思いではないと思います。もし、イエスに対して正当な言い分があったのだとしたら、いくらでも宮でイエスと話すことができたのではないでしょうか。しかし、彼らは夜、イエスを捕らえに来ました。自らの行為は決して正当化できないことは、彼らもその良心で分かっていたということではないでしょうか。

神様を中心にするイエス

しかし、イエスは捕らえられることを良しとしました。方法はどうであれ、それが神様の思いであり、神様の計画であると受け止めていたからでしょう。弟子たちはみな闘う覚悟はあったのかもしれませんが、捕らえられることが神様の思いであるということを受け止めることはできなかったのかもしれません。自分たちの思いとは違う展開を受け入れることはできずに、みなイエスを見捨てて、逃げてしまったのかもしれません。

 

いかがでしたか

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