【日本人と日本文化】〝おもてなし〟の精神は日本人を苦しめているのか

〝おもてなし〟は問題なのか

このブログでは〝おもてなし〟にも見ることができる日本人の高い国民性は日本人の誇りだとお伝えしておりますが、若い人たちの中には、それが苦痛だと感じる人もいるようです。本当に日本人の高い国民性が問題なのでしょうか。「日本の生きづらさはどこから?わたしは〝おもてなし〟から」という記事をご紹介します。皆さんはどう思われますでしょうか。

無茶な要求にも応えなくてはという風潮

「過労は特定の会社だけの責任ではなく、日本全体にあるクライアント至上主義、『お客様は神様』という考え方も問題になっている。クライアントからの無茶な要求にも応えなくてはという風潮が未だ根強い。」と過労死問題に取り組んでいる弁護士の言葉が紹介されています。

「おもてなし精神」に苦しめられる!?

「『他人の期待を上回る良いものを作ろうとか、良いものを提供しよう』っていう思いに悪気はないだろうし、それが質の良いものを生み出すこともあると思うけど、日本人に根付いた『おもてなし精神』が私たち自身を苦しめているところもすっごいあるんじゃないですかね?」とこの記事の著者は指摘しています。

本当は感謝されるべきこと

「本当は感謝されるべきこと・すべきことなのに、それが当たり前のことになってきてるような気がするんです。」「このおもてなし地獄ループからどうやって逃れればいいんでしょうか?」とあり、具体的な解決策も提案されています。

解決策1(初級編)

良いサービスを受けたら、これは当たり前じゃないんだ、と意識して、ちゃんと感謝を伝えてみてはどうでしょう。

解決策2(中級編)

あまり良いサービスでなかったとしても、海外だったらと考えて、苛つかない。日本人は期待が高すぎると思う。

解決策3(上級編)

過剰なおもてなし、サービスを求められたら、断る。(記事からの抜粋引用は以上です。)

本来の日本人の心を体得する

いかがでしたか。なかなか高い日本人の国民性の中で、要求も高いので苦しむ若者の姿も分からないではないという気がします。私はこの著者の3つの解決策は正しい方向性を示していると思います。ただ、もう少し明確に本当の日本人のおもてなしの心を日本人として正しく自分のものとして体得することも大切だと思います。やはり神様を中心にするという日本人の根本から離れ、人間が中心になるとこのような問題が起こって来るのだと思います。

それは他者への配慮

本来それは他者から要求されるものではなく、他者への配慮のことです。配慮してあげること、サービスしてあげることそのものが神様の思いにかなうことであり、自分にとっての喜びであるということです。それは人格的な成熟も求められるものですが、本来の日本人の姿であり、世界に示すべき誇り高い人間の姿だと私は思います。

良識と常識を磨く

この記事の著者にとって、解決策3はわがままになることであり、自分にはまだまだ出来ないとありますが、私はわがままになることではないと考えています。神様を中心にして生きるなら、理不尽な要求に応えることはサービスでも〝おもてなし〟でもないと思います。一流のホテルであれば、お客様に失礼にならないように丁寧な態度ではありますが、丁重にお断り申し上げるのではないでしょうか。それもまた日本人の〝おもてなし〟の心ではないかと思います。

聖書を読みましょう

そのためには、いつも人間中心、自己中心を退けて、神様を中心にすることが大切だと思います。それが日本人の心だと思います。過剰なサービスを要求したり、文句を言うとすれば、いったい何を中心にしているのでしょうか。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたイスラエル人の記録であり、神様を中心とする本来の日本人の心のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる日本人の心を知るために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マルコによる福音書 8章22~26節

そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何が見えるか」と尋ねられた。

すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。

盲人の目を開く

ここにもイエスが盲人の目を見えるようにした出来事が記されています。イエスはなぜこの盲人を村の外に連れ出したのか、なぜ村にはいってはいけないと言われたのか、私には分かりません。イエスにはその理由が何かあったのだろうと思いますが、イエスはその理由を説明しなかったのかもしれませんし、これを書いたマルコもその理由は分からなかったか、特別な興味もなかったということなのかもしれません。

神様の超自然的な力はある

ただ、これは何かの教えとか、たとえではなく、事実の記録として書かれているという印象を受けます。それは超自然的な出来事であり、奇跡と言うべき内容だと思います。もちろん、私にはこれが事実の記録だと証明することも出来ませんが、天地万物をお造りになった神様の力がイエスを通して働いていたということを示しているのではないかと思います。目には見えませんが、そのような神様は確かに生きて働いておられるということではないでしょうか。

いかがでしたか

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本書の目次

一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」