これまで土曜日は「恋愛・結婚」をテーマに神様を中心にした考え方について書いて来ましたが、今日からは毎週水曜日に加えて、土曜日も「キリスト教・宗教」というテーマで書きたいと思います。今日はキリスト教と仏壇についてです。
キリスト教と仏壇
「仏壇を拝む」というと語弊がありますが、つまり仏壇の前に座って線香をあげて祈る、仏式の葬儀に出席して焼香する。クリスチャンはそのような行為をしても良いのでしょうか。どのくらいのパーセンテージなのか調べたことがないので分かりませんが、全く問題ないとするキリスト教会もあれば、すべきではないとするキリスト教会もあるようです。ネットで調べた限りでは問題ないとする意見が多いように感じました。
それは偶像礼拝なのか
反対する人たちの理由は「それは偶像礼拝にあたる」ということだと思います。自分でそう思ったのか、そのように指導されたのか、またはキリスト教関係の本にそう書いてあったからなのか忘れてしまいましたが、私も以前はそう思っていました。確かに聖書には偶像礼拝は罪だと書かれています。ポイントは仏式の葬儀や仏壇は偶像礼拝にあたるのかということでしょうか。
本来の仏教は偶像礼拝ではない
仏教と一言で言っても様々ですが、本来の仏教は神様を教えていません。仏教とは知恵であり、教えであり、悟りだと思います。後には大日如来とか、阿弥陀如来など、神に相当する概念も出てきますが、それらは像そのものではありませんし、聖書の信仰の影響ではないかとも言われています。また、仏式の葬儀の際に読経が行われますが、それは「死」に際して、集まった人々に向かって教えの朗読がされているのであって、線香や焼香もまた、それらの教えを身に沁み込ませるということを象徴しているようです。そこには本来偶像礼拝にあたる行為はありません。
不道徳とも言えない
また、それが本当に神様が忌み嫌われる偶像礼拝の罪であれば、そこには不道徳な行為や思いがつきまとって来ると思いますが、仏壇に線香をあげたからといって、また仏式の葬儀で焼香したからといって、必ずしもそれらの人々がそれゆえに他の人よりも不道徳な生活をしているとは言えないと思いますし、それ自体不道徳とも言えないと思います。むしろ先祖を大切にすることは良いことだと思いますし、仏壇に欠かさず線香をあげる人の方が良い人が多いかもしれません。
イエスの言葉
新約聖書マタイによる福音書7章にイエスがこのように語ったとされる言葉が記されています。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨(みむね)を行う者だけが、はいるのである。」
世界から称賛される日本人の国民性
このブログでも紹介して来ましたが、日本人の国民性は世界的に高く評価されることが多く、概して言えばキリスト教国と言われる国の人々よりも高く評価されることが多いと思います。もし、仏壇の線香や仏式の葬儀の焼香が神様の前に大きな罪であれば、このように祝福されることはないだろうと思います。日本人がこのように祝福されて来たのは、イエスの言葉にもあるように、比較的神様の御旨にかなうことを行って来たということを示しているのではないでしょうか。
それでも反対する理由があるとすれば
それでも線香をあげない、焼香をしない、またはしたくないと言うことであれば、その理由は偶像礼拝ではなく、それがキリスト教の風習ではないからという理由だと思います。確かに仏壇に線香をあげたり、仏式の葬儀で焼香する行為はキリスト教の風習ではありません。しかし、大切なことはキリスト教の風習を守ることではなく、神様の御旨を行うことであることは明らかだと思います。イエスに向かって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではないと記されています。
聖書を読みましょう
それではクリスチャンは仏壇に線香をあげたり、仏式の葬儀で焼香したりして良いのでしょうか。そのことについては、次回水曜日のブログで書きたいと思います。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様の御旨を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様の御旨を中心にして生きる日本人として聖書を読んでみてください。
新約聖書 マルコによる福音書 6章14~29節
さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。
ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕らえて獄につないだ。それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。
そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。
ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。
そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。
王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。
ヘロデ王
ヘロデ王はユダヤの王様です。当時、ユダヤはローマの支配下に置かれていましたが、王を立てることは許されていたようです。しかし、神様に立てられた王様というよりも、ローマに都合の良い人物が選ばれたのだろうと思います。
困惑するヘロデ
ヘロデの態度を見ていると、何が正しいことなのか分かってはいるものの、それを中心にすることができず、どっちつかずの生き方をしていたのではないかと思わされます。ヨハネの言っていることは正しい。ヨハネの首を切ることは正しくない。そう分かっていながら、神様を中心にすることができずに、悪に流されて行ったのではないでしょうか。それでイエスの噂を聞いて、これはヨハネの呪いではないかと恐れたのではないでしょうか。
ヨハネの死を許された神様
一方、神様を中心にして生きることを貫いたヨハネは、ここで死を迎えることになりました。神様がそれを許されたのだと私は思います。なぜ許されたのか私たちは全てを知ることはできませんが、神様がそれをよしとされたのは事実だろうと思います。
いかがでしたか
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本書の目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」
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