【日本人と日本文化】「自分さえ良ければ」という考えを嫌う

確かにそうだろうと思います。少なくともそれは良くないこと。日本人はそう考えているだろうと思います。ルース・ジャーマン・白石さんの著書「日本人が誇れる33のこと」からご紹介いたします。

日本のある会社の取り組み

日本のある会社の取り組みを知り、わたしは目が覚める思いでした。スーパーなどに買い物に行く際、店の入口近くには駐車をしないように心がけているそうです。なぜならば、入口近くの駐車スペースは、体の不自由な人やお年寄りのために空けておくべきだと考えているからだというのです。わたしはこの話をうかがい、感動を超えて、どうしてそこまで人のために尽くせるのか、にわかには信じがたい気持ちになりました。アメリカで、こうした考えに一度も出会ったことがありません。

日本人の意識の高さ

日本人は、万が一のことをあらかじめ考える能力があります。電車の優先席や、公共の障害者対応トイレなどでも、日本人の意識の高さがうかがえますね。どんなに混雑していても、トイレに並んでいても、優先席に堂々と座ったり、車いすでも入れるよう設計したトイレを使おうとする人は少ない。でも、それは特別な能力です。少なくともアメリカ人のわたしにはありませんでした。

万一のことを考える日本人

こうやったらこうなるかも、こうしたら、こういう結果になり得るからこうしよう・・・そうしたシミュレーション力というか、先のことまで深く考える力が日本人にはあるような気がしてなりません。しかし、なぜかアメリカ人のわたしにはそうした「心」は育っていません。万が一のことを考えるという習慣がなく、どうにかなるとどこかで思い込んでいるところがあるような気がします。万一のリスクより確率を考えるクセがついているのです。

日本で学んだ良い習慣を実践したい

わたしは日本に20年住んでいますが、いまだに自己中心的な発想が抜け切れていません。一生懸命、日本のいいところを取り入れようとしていますが、日本のみなさんが自然にしている「万一を考えて慎重に行動する」ということができるまでには、もう少し時間がかかりそうです。でも、海外へ行ったときには、日本で学んだよい習慣を率先して、プライドをもって実践していきたいと思います。そうすることが、みんなが快適に、ハッピーに過ごせる世の中をつくっていくことにつながると思うから。(本からの抜粋引用は以上です。)

自己中心を退け、神様を中心にして生きる

日本人の意識の中に自己中心を退けて、神様を中心にして、他者に配慮して生きることが幸いな生き方だということが継承されているからだと思います。でも、最近では「どこが悪いのか」と言わんばかりに他者への配慮もなく、当然主張できる権利とばかりに自己主張する人も少なくありません。今一度、神様に立ち返ることが大切だと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたイスラエルの人々の記録であり、日本人の心の源泉です。キリスト教の教典としてではなく、日本人として、神様を中心にして生きるために聖書を読んでください。

新約聖書 マルコによる福音書 10章1~12節

それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた集まったので、いつものように、また教えておられた。そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。

イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。

家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。

イエスの教えは何だったのか

聖書を見ると、イエスと弟子たちのいるところには、いつも群衆が集まって来たようです。イエスはいつものように教えられたと記されています。しかし、何を教えたのか、その内容は記されていません。意外と聖書にはイエスの教えはあまり記されていないように思います。いつも同じようなことを教えておられたので、繰り返し記録する必要がなかったか、取り立てて記録する内容ではなかったということでしょうか。私は自己中心を退け、神様を中心にして生きること、それは必ずしもユダヤ教の戒律を守って宗教的な生活をするということではなく、それぞれ何が正しいことなのか、何が神様に喜ばれることなのかを、その良心で判断して生きる事であり、それが救いであり、幸いな人生だと教えたのではないかと想像します。

イエスを試すパリサイ人

そこにパリサイ人が来て、イエスを試して言いました。何を試したのでしょうか。イエスがユダヤ教の正しい聖書知識を持った教師かどうか、その正体を暴くということだったのかもしれません。彼の質問は正当な離婚とは何かということだと思います。イエスの答えは、どのような聖書解釈をしようと、宗教的にどういう考えがあったとしても、神様の前に正当な離婚などというものはないということを言っているのだと思います。

ユダヤ教かキリスト教か、いや神様が中心

だから、キリスト教では離婚は禁止であり、それが正しい聖書解釈であると主張するとしたら、それもまたここでイエスが言っていることではないと思います。大切なことは自己中心を退け、神様の喜ばれる生き方を中心にすることであり、ユダヤ教やキリスト教の戒律を守って宗教的な生活をすることではないということだと思います。それぞれ自分の良心に語り掛けられる神様の声なき声に聞くことが大切だと思います。離婚についてもそれぞれいろいろな事情があるでしょう。他人がとやかく言って決めることではないと思います。

いかがでしたか

参考になりましたら「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

本をお求めください

本の表紙Amazonから「日本人の信仰が世界を救う—元キリスト教牧師が語る神の国ニッポン」を出版しています。電子版は800円。文庫版は2,182円です。日本人の高い国民性のルーツは聖書にあること、イエスの教えはキリスト教よりむしろ「日本人の信仰」の中に引き継がれていることが分かります。ぜひ、お読みください。詳しくはこちらをご覧ください。

目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」