【日本とイスラエル】土の祭壇、青銅の蛇

日本の宗教的風習と古代イスラエルのよく似た風習について、日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本で10年以上過ごしたことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」からご紹介いたします。

土の祭壇

『日本書紀』には、神武天皇が天香山(あめのかぐやま)から「土を取り」、それでたくさんのレンガを作って祭壇とし、緒神を礼拝したと記されている。古代イスラエルでも祭壇が土で作られることがあった。聖書に、「わたし(神)のために土の祭壇を造りなさい」(旧約聖書出エジプト記20章24節)という言葉がある。祭壇は、石ではなく、土でもよかった。祭壇が土で作られる場合、それはレンガを意味した。

レンガの歴史

レンガの歴史は古い。中近東では今から四千数百年前、「バベルの塔」の時代からレンガが多く作られていたことが、聖書に記されている(旧約聖書創世記11章3節)。イスラエルでも、土でレンガを作り、それで祭壇が作られることもあったであろう。ただし、レンガは石に比べてもろく、長い時代にわたって残らないため、考古学者は土(レンガ)の祭壇というものをイスラエルにおいては発見していない。他の中近東諸国では発見されている。

青銅の蛇

かつて出エジプトをしたイスラエル民族が荒野を放浪しているとき、彼らが蛇の大群に出会い、多くの人が噛まれて死んだことがあった。その蛇の毒は、火のように激しかったという。そのときモーセは、民を救うため、神の命令に従って青銅の蛇を形作り、それをさおの上にかかげて人々が見えるようにした。「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」(旧約聖書民数記21章9節)

やがてそれが偶像礼拝となってしまった

しかし、イスラエル民族はその青銅の蛇を偶像礼拝的に拝むようになった。それで聖書によれば紀元前8世紀、南王国ユダの王ヒゼキヤは、人々の偶像礼拝をやめさせるために、この青銅の蛇を打ち砕いた。「彼は・・・モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである」(旧約聖書Ⅱ列王記18章4節)

北の十部族はその風習を持ったまま離散したと考えられる

北王国イスラエルの十部族のアッシリヤ捕囚(紀元前722年)は、これより少し前のことであった。つまり北王国イスラエルの十部族は捕囚されたとき、青銅の蛇に香をたき、崇拝する風習をまだ持っていたであろう。

蛇に香をたく日本の風習

じつは大分県の猪群山(いのむれやま)に、40年ほど前まで、そこの神社が行っていた一風変わった儀式(千把焚き)があった。それは雨乞いの儀式なのだが、人々はまず、樹木の幹を6本、「ダビデの星」(✡)の形に組んで土台をつくる。その上に木の枝をたくさん積み上げて、小高い塔のようにする。そしてその塔の一番上には、「蛇の抜け殻をからませた竹ざお(御幣)」を刺す。

蛇をご神体とする風習

人々は、その木の枝や葉に火をつけて燃やし、雨乞いをするのである。竹ざおの上の蛇に何か神秘的な力を求め、それに香をたいている。これは、古代イスラエルの青銅の蛇にまつわる風習を連想させる。また日本の神社には、蛇をご神体として祀っているところが少なからずある。このことも、これに関係しているのかもしれない。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたイスラエル人の記録であり、日本人の信仰のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人の信仰を知るために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マルコによる福音書 9章38~50節

ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。

イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。

だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。

もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、かたわになって命に入る方がよい。〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。

人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに和らぎなさい」。

私たちについてこない

私たちのグループに所属しているメンバーであるかどうかということは関係ないということでしょう。大切なことはどこの宗教団体や組織に所属しているかということではなく、神様を中心とした生き方をしているかどうかということだと思います。

弟子のグループにいなくても

キリストの直属の12弟子だからとか、キリストの弟子たちのグループの中にいるとか、そういうことが大切な訳ではありません。神様のために仮に大きな働きが出来なかったとしても、水一杯でも神様への思いがあるなら神様の救いからもれることはない。そういうことではないでしょうか。

つまづかせる者

「つまづかせる」とは、人を神様から遠ざけることだと思います。そういうことをしないように。また、実際に手足を切り捨て、目を抜き出せということではなく、罪を犯させるもの、自分を神様から遠ざけてしまうものは自分の体のように大切なものであっても切り捨てる、退けるべきだということ。本当に重要なものは何かということを見失わないようにしなければいけないと思います。

「塩」とは何か

「塩」とは、神様を中心とした生き方のことではないでしょうか。「火」とは試練や困難のことかもしれません。苦しいところを通らされて、本当に大切なことは自己中心、人間中心を退けて、神様を中心にすることだと深く理解するということはあり得るでしょう。それこそが高い品性であり、日本人の心ではないでしょうか。自分のうちにしっかりと「塩」を持ち、互いに和して生きることが大切だということではないでしょうか。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」