神の民の祝福
本来、イスラエルは神に祝福される民族として神様に選ばれたことが旧約聖書には何度も記されています。旧約聖書申命記28章1節にはこう書かれています。「もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。」
神の民の呪い
ところがイスラエルは神様を中心としなかったために神様の呪いを受けることになったことが聖書には繰り返し記されています。旧約聖書申命記28章64~66節にはこう書かれています。「主は地のこのはてから、かのはてまでのもろもろの民のうちにあなたがたを散らされるであろう。その所で、あなたもあなたの先祖たちも知らなかった木や石で造ったほかの神々にあなたは仕えるであろう。その国々の民のうちであなたは安きを得ず、また足の裏を休める所も得られないであろう。主はその所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を打ちしおれさせられるであろう。あなたの命は細い糸にかかっているようになり、夜昼恐れおののいて、その命もおぼつかなく思うであろう。」
イスラエルの災いの歴史
実際、イスラエルは国を失い、世界中に離散し、異国の地で苦しい生活を余儀なくされました。その災いの頂点はナチスによる虐殺をはじめとする、世界各地におけるユダヤ人迫害の歴史ではないでしょうか。
イスラエル回復の預言
しかし、聖書にはイスラエル回復の預言も数多く記されています。旧約聖書エレミヤ書3章18節にはこう書かれています。「その日には、ユダの家はイスラエルの家と一緒になり、北の地から出て、わたしがあなたがたの先祖たちに嗣業(しぎょう)として与えた地に共に来る。」
ユダとイスラエルが一つとなる
以上の内容は旧約聖書の中に繰り返し記されており、クリスチャンをはじめ旧約聖書を読んだことのある方であれば良く知っている内容だろうと思います。ただ、最後のイスラエルの回復とはユダとイスラエルが一つになって、神様の約束の地であるイスラエルの地に住むことだと記されていることに注目していただきたいと思います。
イスラエル共和国の建国
聖書によると、サウル王、ダビデ王、ソロモン王と三代続いた統一イスラエル王国はソロモン王の後、北イスラエル十部族と南ユダ二部族の南北に分裂し、北イスラエルはB.C.722に、南ユダはB.C.586に滅びました。その後、南ユダの人々はイスラエルに帰還し、やがてイエスの時代を迎えることになりましたが、A.D.135には完全に国を追われ、世界中に離散することになりました。1948年にイスラエル共和国は奇跡のように再建国しましたが、それは南ユダ二部族が中心であり、北イスラエル十部族は今もなお失われたままであり、その所在も明らかにはなっていません。
呪いの終わり
ある意味、1948年のイスラエル共和国の建国はイスラエル民族の呪いの時代の終わりを告げていると言えると思いますが、まだ北イスラエル十部族がイスラエルの地に戻っていないということは、その祝福が完全には実現していないことも示していると思います。現在、南ユダ二部族の人々は世界のどこかに北イスラエル十部族がいて、彼らがイスラエルに帰還することこそが神様の祝福の完成であることを知っているので、その国名を決して「ユダヤ共和国」とは呼ばずに、「イスラエル共和国」と呼び、失われた北イスラエル十部族を今も捜し続けています。それが日本とどう関係するのか。次回はそのことについて書きたいと思います。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたイスラエルの人々の記録であり、日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を読んでみてください。
新約聖書 マルコによる福音書 9章30~37節
それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。
それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互いに論じ合っていたからである。
そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
人に気づかれるのを好まれなかった
イエスはなぜ人に気づかれるのを好まれなかったのでしょう。メシヤの十字架の死と復活について、弟子たちによく考えて、悟って欲しいと願っていたからでしょうか。いずれにしても弟子たちを少し群衆から遠ざけたいと考えていたのではないでしょうか。
だれが一ばん偉いか
イエスが十字架にかけられる時は近づいていました。当然、イエスはそのことを考えていたでしょう。しかし、弟子たちの話題は誰が一番偉いかということでした。イエスの思いと弟子たちの思いはどれほど隔たっていたことでしょう。しかし、イエスは弟子たちに言いました。一番後になり、みんなに仕える者こそ一番偉い者であって、人の先頭に立つ者、人から称賛される者ではない。これが神様を中心にした生き方であり、それは私たち日本人には、その通りだと深く納得できることではないでしょうか。
幼な子を受けいれる
幼な子を受けいれるとはどういうことでしょうか。確かに幼な子は軽んじられ、立派な肩書のある人は尊重されるというのが一般的かもしれません。しかし、人から一目置かれることのない幼な子のように自らを低くし、人に仕えることができる人こそ、本当に神様に喜ばれる人だということではないでしょうか。そういう本当の人の価値に目を留めることができるようになることが大切だと思います。
いかがでしたか
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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」