今日から月曜日だけでなく木曜日も「日本とイスラエル」というテーマでお伝えします。日本には古代イスラエルの風習によく似た風習がたくさんあります。日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本で10年以上過ごしたことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」から紹介します。
石の柱
興味深いのは、日本神話における神の数の数え方である。日本人は人の数を数える時は「一人、二人・・・・・・」と言うが、神の数を数える時は「一柱(はしら)の神、二柱の神・・・・・・」と言う。なぜ「柱」と言うのか。これはユダヤ人には理解が可能である。古代イスラエルでは、神を祭るときに「石の柱」を立てたからである。柱は、神を連想させるものであった。
日本にある石の柱
秋田県鹿角(かづの)市には、大きな細長い石(岩)を立て、そのまわりにそれより小さい石をめぐらした神石がある。茨城県の鹿島神社の後方にも、柱のような丸い石が立てられ、周囲には美しい垣根があって神石としている。
イスラエルにもよく似た石の柱がある
これら石の柱の作り方は、イスラエルの地で発見されている石の柱とほとんど同じである。「ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を・・・・・・注いだ」(旧約聖書創世記35章14節)。ヤコブは石の柱を立て、それに神酒(みき)を注いだのである。日本の神官も、石の柱に神酒を注ぐ。
石、岩を神聖なものとする
モーセも祭壇のそばに石の柱を立てた。早期のイスラエルにおいては、このように石の柱はヤハウェ神礼拝の一要素であった。ほかにも日本では、石や岩をご神体としている神社が数多くある。その石や岩は、神の霊がそこに降臨する神聖な目標物—「依代(よりしろ)」なのである。
礼拝に自然石を用いる
聖書には、イスラエル初代の王サウルは「大きな石をころがしてきて」、それを祭壇となしたと記されている(旧約聖書Ⅰサムエル記14章33節)。自然石を用いたというのは、切石で祭壇を築くことが禁じられていたからである。「もしあなたが石の祭壇を造るなら、切り石でそれを築いてはならない」(旧約聖書出エジプト記20章25節)と聖書に記されている。日本神道でも、神の礼拝のためには必ず自然石が用いられる。(本からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
自然石を神聖なものとして、そこに神様の臨在を覚えて、神様を礼拝するのは、日本人と古代イスラエル人に共通する習慣であることが分かります。日本人の神様は聖書の神様、イスラエルの神様であることの一つの証拠だと思います。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたイスラエル人の記録であり、日本人の信仰のルーツです。大切なことは神様を中心にして生きるという信仰を日本人が明確に取り戻すことだと思います。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を読むことが大切だと思います。
新約聖書 マルコによる福音書 9章1~13節
また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほど白くすることはできないくらいになった。
すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。すると、雲がわき起こって彼らをおおった。そして、雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。
一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。
そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。
しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。
神の国が力をもって来るのを見る
それはどういうことなのでしょうか。この直後にある栄光の姿になったイエスを見ることを指しているのかもしれません。しかし、それは一つの幻であり、本当の「神の国が力をもって来る」とは、世の終わりにメシヤが栄光の姿でこの地上に再び来ることを指しているのではないかと私は思います。イエスはそのことを語っており、ここでペテロとヤコブとヨハネにその幻を見せたのではないでしょうか。
全てを理解できる訳ではない
しかし、彼らはまだメシヤの死と復活について理解できないでいたようです。また、エリヤとはバプテスマのヨハネのことであり、聖書の預言通りにヨハネが殺されたこともまだ理解できないでいたのだろうと思います。イエスの言葉を直接聞いていた弟子たちでも全てを理解していた訳ではなかったのだと思います。
今、神様を中心にして生きること
「神の国」とは、人間中心、自己中心を退けて、神様を中心にして生きる世界です。やがてそのような国が力をもって来るのを見ることになるとイエスは教えたのだと思います。それはいつ、どのような形で来るのか。イエスはそのことを教え、聖書にもそのことが記されています。もちろん、それは未来に関することであって、私も見たことのない世界です。その聖書解釈をめぐって論争したり、分裂したりすることは賢いこととは言えないでしょう。大切なことは人間的な思いを超えた神様の思いがあることを知って、今、神様を中心にして生きることではないかと思います。
いかがでしたか
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本書の目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」
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