【日本とイスラエル】日本の神々とバアルの神々

古代日本と古代イスラエルの様々な類似点について、日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本で10年以上過ごしたことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」から紹介しています。

日本の神々はバアル宗教の神々に似ている

日本神道は多神教である。一方、聖書の宗教は一神教である。両者の間には、厳然とした違いが存在していると思われるかもしれない。しかし現在のユダヤ教とは異なり、古代イスラエル人の信じた宗教は、必ずしも唯一神教ではなかった。

様々な神々に心を寄せた古代イスラエル人

古代イスラエル人は、唯一の真の神ヤハウェだけでなく、偶像神である「バアル」や「アシュタロテ」「モレク」そのほか異教の神々に心を寄せた。とくにイスラエル十部族の人々はそうであった。

スサノオ、アマテラスとバアル、アシュタロテ

神道の学者によれば、日本神話の「スサノオ」(須佐之男命)は、幾つかの点でバアル神に似ているという(両方とも人身牛頭の荒ぶる神である)。また、女神「アマテラス」(天照大神)は、女神アシュタロテに似ていると言われている。

アメノミナカヌシノカミと聖書の神

一方、日本の神話において一番最初に姿を現した神は、「アメノミナカヌシノカミ」(天之御中主神)とされている。この神は、宇宙の中心に住み、天地を主宰する神である。姿形なく、死ぬこともなく、単独の神で、最も中心的な神である。この神は、どこか聖書が教える神(エル)に似ていないでもない。

天之御中主神のあとに生まれた神々

実際、神道家・平田篤胤(あつたね)の弟子、渡辺重石丸(いかりまる)(1837~1915年)は、アメノミナカヌシノカミは聖書のいう神ヤハウェであると唱えた。日本神話では、この天之御中主神のあと、次々に神々が生まれ出て、やがてアマテラスやスサノオが生まれたことになっている。

バアル宗教との類似

じつは古代イスラエル人がしばしば傾いていった異教——バアル宗教は、これに似ていた。バアル宗教においては、まず至高神エルの「妻」としてアシュタロテ(アシェラ)が考え出され、その息子としてバアルが生まれたという神話となっていた。そして、やがて人々は主神エルよりも、その息子の肥沃神バアルや、多産・快楽の女神アシュタロテを強く崇拝するようになったのである。

バアル宗教の名残り

つまり、主神から神々が生まれていったというこの図式は、日本神話に見られる図式と同じである。日本神話には、古代イスラエル人が傾いていたバアル宗教の名残りとも思えるものが、含まれているのである。(本からの引用は以上です。)

大切なことは本質

確かに日本文化の中には聖書の信仰、イエスの教えが純粋に継承されているという訳ではないでしょう。大切なことは自己中心を退け、神様の願い、思いを求めて正しく生きるという本質だと思います。それは良心で判断できることだと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書を読むことは本来の信仰を知るためにはとても大切だと思います。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心を知るために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マルコによる福音書 15章26~32節

イエスの罪状書きには「ユダヤ人の王」と、しるしてあった。また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。〔こうして「彼は罪人たちのひとりに数えられた」と書いてある言葉が成就したのである。〕

そこを通りかかった者たちは、頭を振りまがら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、十字架からおりてきて自分を救え」。

祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

十字架刑

両手首と両足の甲を釘で打ち付けられ、苦しみの中で徐々に死を迎えるのが十字架刑です。そのような肉体的な苦しみだけでなく、イエスは嘲弄され、辱めも受けました。さらにイエスには霊的な戦いもあったのではないかと思います。

神以上の権威を主張すること

祭司長、律法学者たちはイエスが確かに他人を救ったことを認めています。その良心で判断するなら、そのようなイエスを死刑にすることは正しいことではないということは分かったのではないでしょうか。しかし、彼らは良心の声、神様の声には聞き従わないで、自己中心を貫いて、イエスを十字架につけたのではないでしょうか。神様の権威を認めず、自らの権威をそれ以上に主張することはどれほど恐ろしいことでしょうか。

神様の前に使命を全うする

イエスはそのような宗教家たちに対して、自らの正しさを主張せず、神様の前に自らの使命を全うしたのではないでしょうか。イエスの戦いの対象は人ではなく、悪魔を退け、神様の前に勝利を得ることだったのではないでしょうか。「十字架からおりてみるがよい」という言葉は、祭司長、律法学者たちの言葉でありながら、悪魔の言葉でもあったのではないでしょうか。

メシヤの使命

メシヤは全人類の罪を負って神様からの罰を受ける。それによって全人類は救われる。イエスは十字架の上でその使命を全うしたのだと思います。聖書はそのことを伝えているのではないでしょうか。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」