【日本とイスラエル】ナガスネヒコとの戦い

日本とイスラエルに関連する事柄について、アビグドール・シャハン著「古代日本に辿り着いたユダヤ人・失われた十部族の足跡~イスラエルの地から日本まで」からご紹介いたします。

神のいたずらなのか

大陸の両端に離れて存在する全く異なる二つの民族の中に、ここまでそっくりな民族史と指導者の生き方が存在することは、歴史を司る神の単なるいらずらだろうか。それともこれは偶然などではなく、二つと思われている歴史が、実は一つのものではないのか。

一つのものではないのか

大惨事によって引き裂かれた一つの民族の、同じ一人の指導者の話ではないのだろうか。地理的にも時間的にも遠く離れてしまっているため、見かけや文化に違いはあるが、彼ら双方が尊敬する指導者とその偉大な業績とを、双方が熱心に保存してきたのではないだろうか。

二つの「海を渡る体験」

私は後者の可能性を受け入れる。日本の伝承は、十部族が体験してきた二つの「海を渡る体験」を、一つの話にまとめている。一つ目は出エジプト時代に、約束の地に向けての旅路で海を渡った体験。二つ目は、日本人にとってより時間的にも地理的にも近い体験であるが、朝鮮半島から日本列島の九州や本州に向けて、船で海を渡った体験である。

ナガスネヒコとの戦いと聖書の記述

ナガスネヒコとの戦いは、約束の地のすぐそば、また荒れ野から遠くない場所で起り、最初は打ち負かされた。民数記(旧約聖書)には、パランの荒れ野からイスラエルの地を探るために、斥候が送り出される物語がある。彼らは四十日後に帰ってくるが、彼らの報告によれば、約束の地に住む民は強く、町々は大きくて堅固、さらにそこにはアナク人(巨人)たちまでいるという。

イスラエル陣営の混乱

偵察隊に入っていたヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、一緒に約束の地を探った他の十人の斥候たちの敗北主義的な評価を変えようと試みる。聖書は、十人の斥候たちが行った恐ろしい報告を聞いた後、イスラエルの陣営でどのような騒動が起きたかについて、とても控えめに描写しているが、その報告をきっかけにしてイスラエルの民がモーセに反抗した様子が読み取れる。

モーセの警告

しかしその直後、ヨシュアとカレブが他の斥候の主張を否定すると、驚いたことに民はすぐに悔いて力を奮い起こし、カナンの地に攻め登っていくことを主張した。すでに時を逸したことを知ったモーセは、アマレク人やカナン人と戦うために出て行ってはならない、と警告した。しかし、民は狂気に駆られてモーセの言うことを聞かず、指導者モーセもおらず、霊的力の根源である契約の箱も持たないまま山に登り、敵に打ち負かされ、砂漠に敗走してくるのであった。

神武天皇軍の敗北

このイスラエルの民の敗北は、やはり約束の地のすぐそばで起った、ナガスネヒコに対する、神武天皇軍の敗北に似ている。ちなみに彼らが日本を「葦原中国」と呼んだのは、出エジプトの時に通過した「葦の海」(聖書での「紅海」の呼び名)と、日本への渡航が二重写しになっているからかもしれない。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の歴史、日本人の国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開いてみてください。そこに古くて新しい発見があるでしょう。

新約聖書 マタイによる福音書 15章1~9節

ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。

イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言(ことば)を無にしている。

偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。

大切なことは宗教ではなく、神の御心

ここでパリサイ人、律法学者が問題にしているのは、衛生上のことではなく、宗教的なしきたりとして、手を洗わないことを非難しているのです。しかし、大切なことは宗教上のしきたりを守ることではなく、神の言葉を守ることだとイエスは教えています。たとえば、父と母を敬いなさい。それはどんな時代でも、どんな民族にとっても、とても大切なことだと思います。だれでもその良心で判断できることであり、真理です。それは決してある宗教に特定される教えではありません。しかし、時に宗教は、そのしきたりを守ることが優先され、本当の神の心から人々を遠ざけてしまう危険性を持っています。宗教ではなく、神をいつも心に留めること。それが大切なことではないでしょうか。

いかがでしたか

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

詳しくは書籍情報をご覧ください。