【日本とイスラエル】沖縄本島・宮古島レポート(17)お盆とイスラエルの仮庵の祭り

2019年7月27日(土)~8月2日(金)沖縄本島・宮古島へ古代イスラエルの痕跡を巡る旅に行ってきました。詳しくは10月18日(金)タピ大でも講演させていただきますが、ブログでも少しレポートさせていただきます。 今日はお盆とイスラエルの仮庵の祭りについて、瑞慶山道弘氏のブログからご紹介させていただきます。

お盆はもともと仏教の行事ではない

お盆は、もともと仏教の行事のように思われているが、実はそうではない。原始仏教には、死者を弔う風習も、行事もなかった。原始仏教における出家主義の教えは、家庭や家系、祖先とのしがらみを捨て、そのような執着心を捨てて、仏道修行に入ることを説いた。だから本来の仏教では、祖先のことを取り扱わなかったのである。

沖縄のお盆

沖縄では、旧暦の7月15日がお盆である。日本全国を見れば、8月15日に行なう地域もある。実は、日本に仏教が入るより、ずっと前から、「祖霊祭(たままつり)」という神道の祭りが日本にあった。この祖霊祭が仏教行事に取り込まれて、今のお盆になった。この祖霊祭のルーツが、古代イスラエルの仮庵(かりいお)の祭りと言われているのである。聖書には、仮庵の祭りの日程について、次のように記されている。

なお第七の月の十五日、あなたたちが農作物を収穫する時には、七日の間主の祭りを祝いなさい。・・・・・・あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。」(レビ23:39-42)

日本に渡来した原始キリスト教徒

実は日本には早い時期から、シルクロードを通って、原始キリスト教徒(景教徒)たちが来ていた(一説では4世紀以前とも言われている)。彼らはイエスの弟子たちと同じように、非常にユダヤ的なキリスト教徒だった。つまりユダヤの祭りを守るクリスチャンだったのだ。その原始キリスト教は、中国に入ると景教と呼ばれた。そして原始キリスト教と同じように、景教も多くのユダヤの風習と文化を継承していた。

先祖の霊魂のために祈る風習

実は景教には、先祖の霊魂のために祈る風習があり、大秦景教流行中国碑には、彼らは「日に七度、生者と死者のために祈っていた」と記されている。そしてユダヤの仮庵の祭りのときにも、「イズコル」と呼ばれる、死者のための特別な追悼の祈りがささげられた。

ユダヤ教におけるイズコル

今日のユダヤ教においても「イズコル」は続いており、旧暦の7月15日の「仮庵の祭り」のときをはじめ、年に数回、先祖の霊のために祈る時がもたれる。ユダヤ人は、昔から死者の慰安のために祈る風習があったのである。実は中国には、ソグド人(ペルシャ系アッシリア人:祖霊のために祈る風習を持つ)や景教徒たちがやって来るまで、死者のために祈る盛大な行事としてのお盆はなかった。意外に思うかもしれないが、インド仏教にも、中国仏教にも、当初、お盆や死者のための供養の行事はなかったのである(「日本・ユダヤ封印の古代史2」久保有政、ケン・ジョセフ共著)。 (ブログからの引用は以上です。)

日本人に引き継がれるユダヤ人の信仰

私自身は原始キリスト教徒(イエス・キリストの12使徒を中心とするエルサレム教会のグループ)と景教徒(東方キリスト教会の流れ)は別のグループであったのではないかと考えていますが、どちらもユダヤ的な特徴を持った人々であったということでは共通していたのかもしれません。いずれにしましても、祖先の霊を慰安するという風習はユダヤ人によってもたらされた可能性が高いと私も思います。今では祖先を神のように誤解している節もありますが、本来は祖先が神なのではなく、祖先の霊の慰安を神に祈る、または祖先が礼拝した神に祈るということだったのだろうと思います。それが本来の日本人の信仰であり、沖縄の人々の信仰だと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は沖縄の人々、日本人の文化、伝統、習慣、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、本来の日本人の心を知るために聖書を読んでみてください。

新約聖書 使徒行伝 24章22~27節

ここでペリクスは、この道のことを相当わきまえていたので、「千卒長ルシヤが下って来るのを待って、おまえたちの事件を判決することにする」と言って、裁判を延期した。そして百卒長に、パウロを監禁するように、しかし彼を寛大に取り扱い、友人らが世話をするのを止めないようにと、命じた。

数日たってから、ペリクスは、ユダヤ人である妻ドルシラと一緒にきて、パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰のことを、彼から聞いた。そこで、パウロが、正義、節制、未来の審判などについて論じていると、ペリクスは不安を感じてきて、言った、「きょうはこれで帰るがよい。また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」。

彼は、それと同時に、パウロから金をもらいたい下ごころがあったので、たびたびパウロを呼び出しては語り合った。

さて、二か年たった時、ポルキオ・フェストが、ペリクスと交代して任についた。ペリクスは、ユダヤ人の歓心を買おうと思って、パウロを監禁したままにしておいた。

この道のことを相当わきまえていた

ペリクスはどの程度知っていたのでしょうか。妻がユダヤ人であったということで、ユダヤ教のこと、大切なことは宗教ではなく、その中身、つまり自己中心、人間中心を退けて、神に立ち帰り、神を中心にして生きることだとパウロが主張しているということも知っていたのでしょうか。何かこれまでのユダヤ教に異を唱えているということくらいは知っていたのかもしれません。パウロの話を直接聞き、不安を感じたと記されています。自分には神の前に正しくないことがあると、その良心で感じたのでしょう。しかし、イエス・キリストの十字架の死による神の赦しと救いがあることを知るなら、それは神の前に正しく生きる力となることも知ることができます。古来、日本人はそのような神の力を知っていて、神の前に正しく生きようとして来たのだと思います。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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