【日本とイスラエル】沖縄本島・宮古島レポート(15)香をたく。手を叩く。

2019年7月27日(土)~8月2日(金)沖縄本島・宮古島へ古代イスラエルの痕跡を巡る旅に行ってきました。詳しくは10月18日(金)タピ大でも講演させていただきますが、ブログでも少しレポートさせていただきます。 今日は香をたく、手を叩く風習について、瑞慶山道弘氏のブログからご紹介させていただきます。

ウガン(拝み)の時に香をたく

沖縄では、ウガンの時に線香をたいて祈る。これは沖縄の昔からの風習である。これはイスラエルでも、同じように約3,500年も前から、祭司たちによって、祭壇で香をたいて祈りが捧げられていたのである。

アカシヤ材で香をたく祭壇を造りなさい。・・・・・・アロンはその祭壇で香草の香をたく。すなわち、毎朝ともし火を整えるとき、また夕暮れに、ともし火をともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香りの献げ物を絶やさぬようにする。」(出エジプト30:1,7-8)

イスラエルの風習

香をたく祭壇はイスラエルでは、重要なものであった。香をささげることは、祈りの象徴であった。

この香は聖なる者たちの祈りである。」(黙示録5:8)。

わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を、夕べの供え物としてお受けください。」(詩編141:2)

手を上げて祈る

イスラエルでは、祭司たちが、香をたいて祈る時、しばしば手を上げて祈った。これは神に捧げる時の行為である。沖縄でも、線香をたき、手を上げて御願する姿を見かける。

手を叩く

神社の参拝者は、神前で祈るときに、二度手をたたいて(拍手あるいは柏手)祈願をする。沖縄でも、神前で祈る神人(カミンチュ)たちが、神歌を歌いながら手をたたいたり、あるいはウガン(拝み)の時に手をたたいたり、すり合わせたりして、祈っている姿を目にする。

日本独自の風習

この祈りの時に手をたたく習慣は、中国からではない。有名な「魏志倭人伝」には、日本人(倭人)の独特な風習として、貴人に対して手をたたいて、ひざまづいて拝礼していたことが記されている(「神道の中のユダヤ文化」久保有政著)。つまり当時の日本人は、神に祈るときだけではなく、貴人に対しても手をたたいていたことが分かる。

契約のしるし

また参拝のときだけではなく、約束を違わないというしるしに、双方が手を打つことがある。物品の売買が成立したときなど、「ヨォー」のかけ声などとともに、一同が手を打つことは、今日でも行なわれている。この手をたたくという行為は、尊敬や崇拝の気持ちを表したものであり、また相手に対して、誠実を誓う行為ともとれる。

それは古代イスラエルの習慣

古代イスラエルにも手をたたく風習があった。聖書でも「誓い・契約・約束」などに関するところで、「手をたたく」行為をしていている記述がある。

わが子よ。もし友人の保証人となって、他国の者に手を打って誓い……」(葴言6:1)

彼は誓いを軽んじ、契約を破った。彼は約束をしながら(直訳・手をたたいていながら)、これらすべての事を行った。彼は逃れることができない。」(エゼキエル17:18)

ここでは「手を打つ」ことが、誓いを表す行為とされているし、「約束をしながら」と訳されている所は、直訳では「手をたたいていながら」となっているのである。古代イスラエルでは、約束を守るというしるしとして、手をたたいたのである。

神への敬意

神に祈るという行為は、崇拝であり、尊敬であり、同時に神と民との契約更新を意味している。つまり「今後も神をあがめてまいりますので、豊穣と繁栄を賜りますように」ということである。無意識にしていた、この手をたたくという行為にも、神に対する尊敬であり、誠実を示すという意味があるのかもしれない。(ブログからの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は沖縄、日本の文化、伝統、習慣、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人の原点を知るために聖書を読んでみてください。

新約聖書 使徒行伝 24章10~16節

そこで、総督が合図をして発言を促したので、パウロは答弁して言った。

「閣下が、多年にわたり、この国民の裁判をつかさどっておられることを、よく承知していますので、わたしは喜んで、自分のことを弁明いたします。

お調べになればわかるはずですが、わたしが礼拝をしにエルサレムに上ってから、まだ十二日そこそこにしかなりません。そして、宮の内でも、会堂内でも、あるいは市内でも、わたしがだれかと論争したり、群衆を煽動したりするのを見たものはありませんし、今わたしを訴え出ていることについて、閣下の前に、その証拠をあげうるものはありません。

ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。

わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています。

パウロの弁明

パウロは冒頭で、ペリクスが多年、この国民の裁判をつかさどっていることを、よく承知しているので、何が事実であるのかを明確にするために、またその事実に対する正当な判断を求めるべく自らの弁明をすると言っています。 それは言い訳でも、自己正当化でもないと思います。

良心に責められることのないように

「ただ、この事は認めます」とパウロは言っています。パウロは決して言い逃れをしようとは思っていないことが明白です。ユダヤ教からすれば異端と呼ばれること、すなわち、これまでのユダヤ教という宗教のあり方に対して異を唱えるものであることは認めるということでしょう。しかし、それは神に反することではなく、むしろ神に従うことであること、それがパウロの主張であり、イエスの教えであったことを思います。大切なことは宗教ではありません。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰り、神に従った生活をすること。パウロは「神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めている」と言っています。そういう生き方が大切だと思います。

いかがでしたか

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目次
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二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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