日本人の神様は聖書の神様。日本人とユダヤ人の共通点。

日本人とユダヤ人の共通点

古代日本にユダヤ人が渡来し、日本の文化、伝統、宗教、習慣などに大きな影響を与えたと多くの人が指摘しています。そんな日本人とユダヤ人の共通点について、ニューヨーク生まれのユダヤ人で、かつて日本ユダヤ教団のラビ(教師)であったマーヴィン・トケイヤー氏の著書からいくつかご紹介したいと思います。

近代で白人・キリスト教徒と並ぶ力を得たのはユダヤ人と日本人だけ

日本は世界主要8ヶ国サミット(G8)において、唯一の非キリスト教徒・有色人種の国である。なぜ、日本だけがアジア諸民族の中で、白人世界に伍することができたのか。それはユダヤ人と同じように、日本民族が周辺諸民族と異なっていて、独特だったからだ。

ユダヤ人と日本人ほど識字率が高い民族はいない

ユダヤ人は「本の民族」として知られてきた。子供が生まれて物心がつくようになると、親は子供の前で聖書を開き、蜂蜜を一滴だけたらして子供の唇につけさせた。幼子に「学問は甘い」ということを教えたのだ。日本人も「学ぶ民族」である。江戸時代の日本には、全国にわたって寺子屋と呼ばれる初等教育学校が存在した。そのために、明治に入ってから、日本の方がアメリカよりも早く、小学教育を義務化できた。ユダヤ人と日本人は、ともに教育水準が高かった。

「ゴイ」と「ガイジン」

ユダヤ人と日本人は部族的であるところも良く似ている。自分たちが独特であるという部族意識が極めて強い。そこで内と外を分けて、外国人とはっきりと一線を画する。両民族はそれぞれ自分たちが神、あるいは神々によって特別に祝福された民だと信じてきた。団結力が強く、並外れて誇り高い民族であるところも共通している。ユダヤ人は、ユダヤ人でない者を「ゴイ」と呼んで、自分達とはっきり区別する。日本人が外国人を指して「ガイジン」と呼ぶのに当たる。「ガイジン」は外国人よりも、「外の人」という意味が強いだろう。

ユダヤ教も神道も偶像を拝まない

ユダヤ教も神道も部族の信仰である。伝道師とか宣教師を世界の隅々まで派遣して、現地の人々を改宗させて救おうという発想を持たない。ユダヤ教も神道も人の形を刻んだ偶像を拝むことをしない。神道では「八百万の神々」という。これは八百万という数ではなく、無限を意味している。神道では形のない抽象的な神が、山や、樹木や、小川や、小石や、あらゆる物を通して姿を現すと考えられている。日本人は敬神の念を万物へ向けている。ユダヤ教の考え方に近い。以上、マーヴィン・トケイヤー氏の著書からでした。

日本は神の国

何年か前、当時の森喜朗総理大臣が日本は神の国だと発言して問題となりましたが、確かに日本は神の国だと私は思います。でも、それは日本民族優越主義ではなく、本当に一人ひとりが毎日の生活の中で神様を意識し、神様の思いを中心にして生きることだと思います。どうぞそのための手段として、毎日時間を決めて神様に祈り、聖書を読んでみてください。今日も聖書の続きをお読みしたいと思います。参考にしてください。

新約聖書 ルカの福音書10章38~42節

「さて、彼らが旅を続けているうちに、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』 主は答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』」

いろいろなことを心配して、気を使っていませんか

イエスとその一行はマルタとマリヤという姉妹の家に招かれました。このマリヤはイエスの母マリヤではありません。マリヤという名前の女性は多くいたのだと思います。姉は忙しく準備をしていました。しかし、妹のマリヤはイエスの足もとにすわって、イエスの話を聞いていました。「主」とはイエスのことです。確かにやらなければならない仕事は無限にあるように見えます。そして、いつも時間に追われています。それで気が落ち着かないということはありませんでしょうか。それなのに、妹は手伝いもしないで、そこでイエスの話を聞いているのです。

どうしても必要なことは一つだけです

人となった神様であるイエスの言葉を味わいましょう。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」 具体的にそれは何かということはここには書かれていませんが、マルタは自分が中心になっていたのではないでしょうか。だから、気が落ち着かない。これで良いという確信がない。そういうことではないでしょうか。もてなしのための準備など必要ないということでもないと思います。大切なことは何が中心になっているのかということではないでしょうか。「どうしても必要なことは一つだけです。」 まず、神様の前に静まって、神様が願われることを求めましょう。それ一つできれば良いのではないでしょうか。