「過ちは繰り返しませぬから」ふたたび

主語は誰なのか

2016年5月28日のブログで、この言葉を取り上げました。広島の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に刻まれた言葉です。主語は誰なのかを巡って問題となっています。以前のブログで私は誰かの責任を追及するよりも、それぞれ自分の過ちを反省することが大切ではないかと書きました。

誰の責任なのか

今も、その思いは変わりません。また、それができるのが日本人であることを誇りに思っています。しかし、それは一方的に日本人が責任を負うということを意味していないことにも触れておく必要があると思い、ふたたびこの言葉を取り上げました。

誰の言葉なのか

この文章は、自身も被爆者である雑賀忠義広島大学教授(当時)が撰文・揮毫したもの。浜井信三広島市長が述べた「この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」に準じたものであった。とウィキペディアにはあります。

原爆投下の責任

また、雑賀氏は「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。」とも述べているという。

正当化できるのか

原爆投下の責任は日本にあるという考えがアメリカでは一般的だと聞いたことがあります。それは原爆投下を正当化する考え方だと思いますが、たとえどんな理由があったとしても、一般市民を無差別に殺戮する兵器の使用は正当化できないと私は思います。皆様はどう思いますか。

WGIPの影響

また、戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によるWGIP(通称ウォー・ギルト:戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)によって、悪かったのは全て日本人であり、日本軍であり、アメリカを初め連合国の全てを正当化する教育が日本人に対してなされたという事実を知っておかないと、私たち日本人は正しい判断が出来ないと思います。

事実を知ること

日本はどうして戦争に進まざるを得なかったのか。その時、アメリカは日本にどのような政策を取ったのか。東京裁判とは何だったのか。戦後日本はどのように扱われたのか。一方的な価値観に基づいて判断するのではなく、事実に基づいて判断する必要があると私は思います。

その上で判断する

もちろん、日本のやったことは全て正しかったと言うつもりはありません。でも、日本が全て悪かったということでもないと思います。また、アメリカが全て正しかったという事もできないと思いますし、アメリカが全て悪かったとも言えないでしょう。

それも神様を中心にすること

戦後、日本が全て悪かったという教育がなされましたので、そんなことはないという事実も知る必要があると私は思います。「勝てば官軍。負ければ賊軍。」という言葉があります。残念ながら、それは現実としてあるかもしれませんが、だからこそ事実はどうだったのかということを正しく知ることが大切だと思います。それもまた神様を中心にすることになるのではないでしょうか。

しかし、WGIPによって日本人は憎しみという感情から解放された側面があるとすれば、それも感謝なことだったかもしれません。いや、WGIPがなくても、日本人ならアメリカを憎まなかったかもしれませんが・・・。日本人ですからね。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、実は日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、日本人として、神様を中心として生きるために参考にしていただきたいと思っています。

新約聖書 使徒の働き 25章23~27節

こういうわけで、翌日、アグリッパとベルニケは、大いに威儀を整えて到着し、千人隊長たちや市の首脳者たちにつき添われて講堂に入った。そのとき、フェストの命令によってパウロが連れて来られた。

そこで、フェストはこう言った。「アグリッパ王、ならびに、ここに同席の方々。ご覧ください。ユダヤ人がこぞって、一刻も生かしてはおけないと呼ばわり、エルサレムでも、ここでも、私に訴えて来たのは、この人のことです。

私としては、彼は死に当たることは何一つしていないと思います。しかし、彼自身が皇帝に上訴しましたので、彼をそちらに送ることに決めました。ところが、彼について、わが君に書き送るべき確かな事がらが一つもないのです。

それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王よ、あなたの前に、彼を連れてまいりました。取り調べをしてみたら、何か書き送るべきことが得られましょう。囚人を送るのに、その訴えの個条を示さないのは、理に合わないと思うのです。」

何が事実なのか

はっきり分かることは、ローマ総督フェストはパウロには死にあたるような罪は何も見出せない、無罪だと判断していたということです。そのパウロを一刻も生かしてはおけないと訴えているユダヤ教体制側の人たちの心は憎しみであり自己中心に他ならないと思います。

不条理と思えるようなこの世界の現実

それでもパウロは釈放されずにカイザルの法廷に送られることになりました。何と理不尽な、何と不条理なことではないでしょうか。しかし、この理不尽で不条理な現実の上に神様の目は注がれている。神様はこの状況を知らないのではない。また無力な訳でもない。そこに目を留めることが神様を中心にすることであり、信仰ではないでしょうか。

全ては神様の御手の中

慌てる必要はありません。憤る必要もありません。全ては神様の御手の中にあることを覚えて、なすべきことをなして歩む。それが神様を中心にした生き方だと私は思っています。パウロもまたそのように生きたのではないでしょうか。

いかがでしたでしょうか

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