映画「沈黙」をめぐって(2)

昨日は遠藤周作原作の映画「沈黙」について、「映画が語らない真実」というコラムから一部をご紹介いたしました。まだ、読まれていない方がいらっしゃいましたら、まず、映画「沈黙」をめぐって(1)を先にお読みください。このコラムを読んで、今日は以下の3つのポイントで、私のコメントを書いてみたいと思います。

1)神の沈黙について

「なぜ困難な状況において神は沈黙しているのか」という問題は個人的な問題であるにも関わらず、遠藤周作個人の苦悩が、あたかもキリスト教信仰の本質であるかのように理解され、論じられる結果を生み出したことは非常に残念であるというコラム著者の主張に私も全く同感です。

何を中心にするのかという信仰の問題

「沈黙」という作品のテーマはキリスト教信仰、またはカトリック信仰を取り扱ったものではなく、信仰と不信仰の間をさまよう遠藤周作自身の心の葛藤を取り扱ったものだと思います。それでも神様を中心にして信仰に立って生きるのか、それとも自分の感情を中心にして不信仰になり、神様から離れて流されてしまうのか。それが問われているのであって、これがキリスト教信仰の本質ということではないと私も思います。

2)政治権力と結びついた宗教の問題

当時の日本がキリスト教を禁止したのは、キリスト教が植民地主義という危険を孕む国家権力と結びついていたためであり、日本はキリスト教そのものを弾圧したのではなく、その背後にある植民地主義を目論む国家権力を拒絶したという著者の主張にも全く同感です。

自己中心を正当化する宗教

植民地主義が先だったのか、神様の意志だという確信が先だったのかは分かりません。しかし、植民地主義は神の意志だということで、そのためには何をやってもいいということになれば、自己中心を神の名によって正当化しているだけだと思います。私は個人の確信である信仰を普遍化し、宗教にしてしまうこと自体が問題ではないかと思っています。

3)個人の確信を人に押し付ける問題

踏み絵を踏むことは信仰を捨てることだという宣教師たちの個人的な確信を日本人にも押しつけたことは大きな間違いだったという著者の主張に全く同感です。今でも西欧キリスト教は西欧文化とは違う文化を悪と決めつける同じ間違いを犯しているという主張にも全く同感です。

宗教と信仰

しかし、残念ながら宗教とはそういうものではないかと私は思う様になりました。同じ神様を中心にしようとしていても、ユダヤ人と異邦人の間には軋轢があったことが新約聖書を読むと分かります。それを是正し、より良い宗教にする努力も大切だと思いますが、だいたい宗教というコンセプトに限界があるように私は思います。

神様を中心にして生きる

私はむしろ宗教に固執しないで、その本質である神様を中心にして生きるという信仰を大切にすべきだと思っています。宗教はそれぞれ違っても、互いにその違いを受け入れ、むしろ尊重し、共に神様を中心にして生きることができるように励まし合うべきではないでしょうか。「沈黙」の時代の日本は国家権力と結びついたキリスト教という宗教を拒絶したのであって、神様への信仰を拒絶した訳ではなかったと私は思っています。また、多くの日本人は神様を中心にして生きるという信仰は大切なものだと考えていると思いますが、キリスト教を含め、何か特定の宗教の信者になることには懐疑的な人が多いのではないでしょうか。

聖書を読みましょう

大切なことは宗教をやることではなく、神様を中心にして生きることだと私は思います。そこにどんな問題の解決も、幸いな人生の秘訣もあると思います。神様を中心にして生きることができるように、毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めします。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、実は日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書を読んでいただきたいと思っています。

新約聖書 使徒の働き 25章6~12節

フェストは、彼らのところに八日あるいは十日ばかり滞在しただけで、カイザリヤへ下って行き、翌日、裁判の席に着いて、パウロの出廷を命じた。パウロが出て来ると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちは、彼を取り囲んで立ち、多くの重い罪状を申し立てたが、それを証拠立てることはできなかった。

しかしパウロは弁明して、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、何の罪も犯してはおりません」と言った。ところが、ユダヤ人の歓心を買おうとしたフェストは、パウロに向かって、「あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受けることを願うか」と尋ねた。

するとパウロはこう言った。「私はカイザルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。あなたもよくご存じのとおり、私はユダヤ人にどんな悪いこともしませんでした。もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。

しかし、この人たちが私を訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカイザルに上訴します。」 そのとき、フェストは陪席の者たちと協議したうえで、こう答えた。「あなたはカイザルに上訴したのだから、カイザルのもとへ行きなさい。」

ユダヤ人たちの訴えとパウロの弁明

エルサレムから来たユダヤ教の体制側の人たちの訴えは感情的な訴えであり、どれも証拠をあげることはできませんでした。パウロはユダヤ教の律法に対しても、宮に対しても、カイザル、つまりローマに対しても、何の罪も犯していないとはっきりと主張しました。

パウロのポイント

神様を中心にして生きるとは、ユダヤ教に反対するものでも、またローマに敵対するものでもないということが分かります。神様を中心にして生きるとは、何か特定の宗教を信仰することでも、ある特定の文化に敵対したりするものでもないということではないでしょうか。

神様を中心にして生きること

神様を中心にして生きるとは、民族、文化、宗教、伝統の違いに関わらず、全ての人類にとって共通することではないでしょうか。逆に言えば、それぞれの民族性、文化、宗教、伝統を大切にすることを拒絶するものではないと思います。それぞれの民族性、文化、宗教、伝統を大切にしつつ神様を中心にして生きることだと私は思います。

日本人の信仰

まして、日本人の信仰、文化、伝統は聖書の信仰に大きく影響を受けているとすれば、なおさら日本人は聖書を参考にしながら、日本人の民族性、文化、宗教、伝統を大切にし、同時に他の民族性、文化、宗教、伝統を尊重しつつ、神様を中心にして生きることが大切だと思います。

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