【人生の目的】天才の人生と凡人の恵み

これまで私が言ってきたことと矛盾するのではないかと思うのは私だけかもしれませんが、最近こんなことを妻と話していました。皆さんはどう思われますでしょうか。

人生の目的

神様を前提にするなら、私たちの人生には目的があります。使命があります。何をやっても三等賞だった私にとって、それは大変大きな喜びの発見でした。ナンバーワンになれなくてもいい。私には、私にしかできない人生の使命がある。オンリーワンの人生を生きる。世の中でも、さかんにそんなことが言われるようになったから不思議です。

大きな結果を期待する自分

それで、それは私だけのユニークな使命ですから、きっと大きな成功というか、それなりの結果というか、成果を挙げることができると信じていました。なぜなら、それは私の個人的なこだわりではなく、神様から与えられた使命ですから、必ず大きな成功を収めるに違いありません。神様がそうされるに決まっていると信じていました。

神様には何でもできる

今になってみると、必ずしもクリスチャンなら全員がそう考えるという訳でもないのかもしれませんが、私は牧師として、そういうメッセージをしていましたし、私自身そう信じて今日まで27年間やってきました。人にはできないことでも神にはできる。神には何でもできるからです。聖書にもそう書いてあります。

歳のせいなのか

しかし、最近本当にそうかなと思っています。もちろん、私たちは皆、それぞれユニークな使命を神様から与えられているでしょう。それは確かなことだと信じています。でも、だからと言って必ずしも大きな成果を挙げるのかという点について、私は少し誤解していたのではないかと思うようになりました。歳のせいでしょうか。

そういう人もいれば、そうでない人もいる

もちろん、大きな成果を挙げる人もいるでしょう。でも、多くの人は必ずしも多くの人が認めるような大きな成果を挙げる訳でもないでしょう。大きな成果を挙げるためには、その目的達成のために、その目的とは関係がないと思うものは切り捨てる必要もあるでしょう。自分の時間と力をどこに集中するのかということは大切なことでしょう。しかし、多くの人はそのようなストイックな生活をするのではなく、与えられた人間関係の中で、それを大切にしながら、必ずしも自分の目的、使命とは関係ないけど、「まあ、いいか」と言いながら生活することもまた恵みではないかという気がしてきました。どうでしょうか。やっぱり歳のせいですかね。

天才と凡人

確かに一部の天才、才能に恵まれた人は多くの人々にインパクトを与えるような大きな仕事をすると思います。でも、それを成し遂げるために、切り捨てたものもたくさんあるでしょう。そうでなければ、そのような大きな成果を挙げることはできないでしょう。それが天才の人生であり、天才の役割だと思います。しかし、そのような才能に恵まれた人は多くはないでしょう。しかし、どちらが幸せなのかということになれば、分かりません。それぞれが自分の人生をどう受け止めているかということになるんだと思います。

神様のために

神様のためにと思って、あれも切り捨て、これも切り捨ててきたように思います。でも、神様のために、まあ、これでもいいか、あれでもいいか。そういう生き方もまた恵みではないだろうか、そんなことを思い巡らしています。それぞれの生き方、行き方というものがあっていいじゃないか。どうでしょう?皆さんはどう思いますでしょうか。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書を読みましょう。私は聖書をキリスト教の教典としてではなく、こんなふうに生きることについて考えを巡らせるために読んで欲しいと思っています。実は聖書は古代日本にもたらされ、日本人の国民性に大きな影響を与えたと思っています。聖書が言っている価値観は欧米キリスト教文化よりも、むしろ日本人の心、日本人の国民性、日本人の習慣により親和性が高いと感じています。

新約聖書 ヨハネの福音書 21章9~14節

彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。

シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。

弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。

弟子たちは、主であることがわかっていた

十字架にかけられ、死んで墓に葬られたイエスが三日目によみがえった。聖書は確かにこの超自然的な出来事を事実として伝えているようです。そんなことが本当にあったのでしょうか。当時の弟子たちにとっても、それは決して当たり前のことではありませんでしたし、聖書も決して当たり前のこととしては記述していないように思います。本当であれば、「あなたはどなたですか」と聞くところではないでしょうか。しかし、既に三度目であり、弟子たちも本当によみがえったということを受け入れつつあったということが、ここには記されているのではないでしょうか。目には見えませんが、確かに神は生きて働いておられ、イエスをよみがえらせた。そういう神は確かにいるということを聖書は伝えているのではないでしょうか。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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