良識と常識

若い頃はこれに従って生きれば良い、これに従って判断すれば良い、これに従って行動すれば良い、という様な絶対的な指針というものを求めていた様に思います。皆さんはいかがでしょうか。それが若者の特徴なのかもしれません。それは真理と呼ばれる様なものであり、当初私は宗教以外にそのような絶対的な指針はないものかと探し求めていましたが、クリスチャンになって、「キリスト教」にそれを求めるようになったんだと思います。人にどう思われようと、目に見える人生の成功がどうであったとしても、「これでいい」と言い切れるものがあれば、確かにそれで良いと思います。

ところが、事はそう単純ではありませんでした。どんな宗教でも教典のようなものがあって、それがすべての判断の絶対的な指針となっているんだと思いますが、同じように聖書からすべての判断の絶対的な指針を具体的に引き出すことは、ある程度は出来たとしても、すべては不可能だと分かりました。にも関わらず、細部にわたるまで、これが聖書の正しい解釈だということを主張しようとすれば、自分とは違う聖書理解を受け入れることができずに分裂するしかなくなってしまうと思います。

では、聖書は何も教えていないのでしょうか。そんなことはないと思います。この歳になったから思うのかもしれませんが、聖書は良識と常識を磨くようにと教えているのではないかと思うようになりました。やっぱり何事もインスタントではいかないものですね。これに従ってれば良いという絶対的な指針を手に入れれば簡単なことですが、長い年月と経験を通して、良識と常識を磨いていく以外にはないのではないでしょうか。

聖書にはこう書いてあります。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」

どこかに明文化されている訳ではありませんが、確かに良識と常識というものがあって、良識がないとか、非常識ではいけません。高い良識はその人の品格や人格に通じるものでしょう。日々、良識と常識に磨きをかけてまいりたいと思います。