私自身25年以上クリスチャンとして過ごす中で、また牧師としての経験を通して、特にこうして日本人の信仰、文化、価値観の中にイエスの教えが引き継がれているのではないかという視点から、それは私が個人的に感じていることかもしれませんが、伝統的、西欧的キリスト教の問題ではないかと思う点について、いくつか書いてみたいと思います。
信仰を個人的に捉えすぎていないか
個人的な罪の自覚と悔い改め、イエス・キリストの十字架の贖いを個人的に受け入れることによる個人的な救いをキリスト教では強調します。そして、この人はキリストを信じているから救われている、この人は信じていないから救われていないと考えます。私も以前はそう考えていましたが、それはあまりに短絡的に思えて来ました。本当に人間がそんなことを判断できるのでしょうか。本当に救いとはそういうことなのでしょうか。皆さんはどう思いますか。
神の前に正しいかどうかに偏り過ぎではないか
神様を意識し、たとえ人にどう思われたとしても、神様の前に正しく生きるということも大切だと思います。でも、人との調和も大切だと今は思っています。私は牧師になるくらいですから、これだと思ったら、まっしぐらという傾向があります。でも、周りの迷惑も顧みずに、神の前の正しさだけで突き進めば、周りは辟易するでしょう。人との調和もまた神様の前に大切なことではないかと今は感じています。
他宗教を認めないのはいかがなものか
かつて私もそうでしたが、キリスト教は他宗教を認めないどころか、敵視しているようにも感じます。しかし、キリスト教だけが善であり、他宗教は悪だと本当に言えるのかと今は思います。それが正しいかどうかは実によって判断しなさいとイエスは教えました。もし正しい実が実っているのであれば、キリスト教以外の宗教であっても、その宗教は良い宗教だということではないでしょうか。
説明ばかりに偏っていないか
ある程度は理屈で理解する部分もあると思いますが、説教も聖書研究も説明が中心で、信仰は頭で理解するものになっていないでしょうか。私はもともと学校の教師だったこともあり、牧師としても教えることに力を注いでいました。しかし、その説明を理解することが信仰なのでしょうか。難しい説明は分からなくても、神様に喜ばれる生き方はあるでしょう。また、全てを説明できる訳でもないと今は思いますが、いかがでしょうか。
観念的過ぎないか
救いは信仰による、行いによるのではないという教義がキリスト教にはあるため、信仰が観念的になり、実際にどういう生き方をしているのかという実践が軽んじられているように感じます。しかし、信仰とは観念ではなく、実践ではないかと今は思うようになりましたが、どうでしょうか。
以上は私の反省でもあります
以上、思いつくままに書いてみましたが、これは私自身がクリスチャンとして、また牧師として、これがキリスト教信仰だと思っていたことですが、日本人の信仰に思いを向けた時に、これは西欧文化の特徴であって、決してイエスの教え、聖書の教えではないと考えるようになりました。皆さんはどう思われますでしょうか。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。大切なことはキリスト教徒になることではなく、何かの宗教に熱心になることでもなく、実際に神様に喜ばれる人生を送ることでしょう。聖書はキリスト教の教典というより、むしろ私たち日本人に深い関係があり、神様に思いを向けるために大変大切な本だと思います。どうぞ毎日時間を決めて、聖書を読んでみてください。
新約聖書 マルコによる福音書 8章27~38節
さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。
そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。
人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。
わたしをだれと言っているか
イエスを通して神様の驚くべき力が現れ、病人が癒され、死人がよみがえらされ、おびただしい群衆がイエスと弟子たちの回りには集まって来ていましたが、群衆はイエスをメシヤとは考えていなかったようです。しかし、ペテロはキリスト、つまりメシヤだと言いました。イエスはそのことを誰にも言ってはいけないと弟子たちを戒められました。まだ、その時ではないということだったのでしょう。
神ではなく、人を中心にしている
「人の子」とはメシヤのことですが、メシヤは罵られ、蔑まれ、十字架につけられて殺されるが、三日目によみがえるとイエスは弟子たちに教えられました。しかし、ペテロはその教えを受け入れることができなかったのだと思います。それは人間を中心にしている。神様を中心にしていないとイエスは弟子たちに聞こえるようにペテロを厳しく戒められました。イエスが確かに神様から特別な権威を与えられたメシヤであるなら、私たちはイエスの教えに注意を払わなければならないと思います。
メシヤが神様の栄光のうちに来る
そして、弟子たちと群衆に教えられました。人間中心、自己中心は結局自分の命を失うことになる。神様を中心にすること。イエスはそう教えられたのだと思います。やがてメシヤは父なる神様の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来る、そういう時のことをイエスは語っています。その時に神様の喜びとなれるように生きることが大切だと思います。
いかがでしたか
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本書の目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」
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