【キリスト教・宗教】誇るべき日本の宗教観

「【世界が注目!】絶対に知っておきたい誇るべき日本の宗教観」という記事から、一部を抜粋してご紹介いたします。

この記事は、ボストンに留学していた著者が、サウジアラビアから留学していたイスラム教徒のルームメイトとの会話から気付かされた「誇るべき日本の宗教観」について書いており、共感するところが大いにありました。

特に白熱した話題は宗教観。

ある時、こんなことがありました。 私たちが街を歩いているとき、頭上を一羽のカラスが飛んでいきました。それを見て彼が、彼の信仰する宗教について驚くべき話をしてくれました。

イスラム教では、ヘビ・カラス・ネズミ・狂犬・トビの5種が、有害度において逸脱した動物であるとして「殺すことが奨励されている」というのです。

私は別に動物愛護主義者などではありませんが、これを聞いて彼との根本的な価値観の違いに愕然としました。夏に蚊に悩まされながら「蚊なんて絶滅してしまえ」と喚くのとは訳が違います。預言者の言葉として、きちんと明文化されているのです。 (有害な動物とはいえ)宗教が殺生を推奨しているというのは、日本で生まれ育ち日本的な価値観に基づいて生きている私には驚愕すべき事実でした。

それは一神教の価値観なのか

この記事の著者は、それはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教のような一神教の考えから出て来るものであり、一神教の宗教では人間が自然を支配し、人間のために自然環境を破壊することも正当化されていると理解したようです。

日本人の宗教観

それに対して日本の神道は自然を命の源のように考え、それを大事にしている。そのような日本人の宗教観、自然観が今世界から注目を集めつつあると書いて、次のように締め括っています。

「一神教も神道も、我々がより幸せな人生を送るためのものという点では共通しているでしょう。しかし、幸福を達成する過程で自然とどう付き合うかという点において、両者は大きく異なります。語弊を恐れずに言えば、一神教では、自然はあくまで人類の幸せを演出するための道具であり、両者は明確に分けられています。(中略)一方神道は、自然の秩序が保たれて初めて人類の幸福も実現するという考えが根底にあるように思います。大自然をないがしろにし調和を乱せば、大自然の一部である我々人類もいずれそのツケを払うことになります。人と自然とは不可分であり、世界(自然)の幸福の上に人類の幸福が成り立つのです。(中略)私は、日本という国の価値を正しく認識し世界に発信してゆくことがより良い世界を構築することにつながると信じていますし、そのようにして地球全体の福利に貢献することが、東洋に浮かぶ島国に生きる我々の使命であると思います。」(サイトからの引用は以上です。)

一神教と自然崇拝

私もまたこの著者の結論に賛成です。しかし、その違いは一神教と多神教(自然崇拝)の違いとして説明されることが多くありますが、私はそう思いません。日本人の信仰もまたユダヤ人を起源としており、本当の意味での一神教だと私は考えています。自然に対する考え方の違いは宗教観の違いというより、もともと持っている文化、価値観の違いだと私は思います。

欧米人と日本人の文化的違い

その証拠に、日本人はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教のような宗教を一神教だから悪いものだとは考えていません。神様はそのような特定の宗教の神様ではなく、それらを超越した存在だというのが日本人の宗教観でしょう。神様が人間を自然の管理者として置いたという聖書の記述は、人間の都合で自然を利用して良いということではなく、環境保全を含め、正しく管理せよという命令だと思います。日本人であればそう聖書を理解するのが普通だと思います。私はキリスト教やユダヤ教が唯一の正しい聖書解釈だと思いません。今、欧米的な聖書理解ではなく、日本人的な聖書理解が求められていると考えています。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書はある特定の宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史の記録であり、私たち日本人の信仰のルーツでもあると思います。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を読む必要があると思います。

新約聖書 マタイの福音書 21章28~32節

ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」

彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。

宗教なのか、神様なのか

エルサレム神殿でイエスが教えていると、祭司長、民の長老たちがイエスのところにやって来て、「何の権威によって、これらのことをしているのか」と言いました。しかし、大切なことはユダヤ教の資格ではなく、神様の前に何が正しいことなのかを判断することだと思います。イエスは逆に彼らにそのことを問いかけましたが、彼らは答えませんでした。

神様の願うことを行ったのはどちらか

そこで語られたイエスのたとえ話が今日の箇所です。大切なことはどちらが神様の願うことを行ったのかということでしょう。それは誰でもその良心で判断することができることだと思います。しかし、知っているだけではいけません。その声に従った行動を取らなければなりません。

神様を中心にして生きる

祭司長、民の長老たちはユダヤ教という宗教は熱心にやっていたのかもしれません。しかし、大切なことは宗教ではなく、神様の願いにかなった生活をすることだと思います。ヨハネは「義の道」を持って来たとイエスは言いました。キリスト教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、日本人であろうと、大切なことは自己中心を退けて、神様の願いを中心にして生きることだと思います。

いかがでしたか

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今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。