【キリスト教・宗教】信仰心と実際の生活

「日本人に『宗教』は要らない」の著者、ネルケ・無方氏は曹洞宗の住職ですが、なぜキリスト教を止めて仏教の僧侶になったのか、その思いの一端をこの本の中でこのように書いています。

頭で考える信仰

キリスト教の教えでは、体を使うことはほとんどない。もっぱら信仰心が重要だとしている。西洋哲学も頭で考えることをとことん突き詰める。私自身、ドイツにいたころは、頭(脳)だけで思考し、頭が体をコントロールするものだと思っていた。体は脳を活かすための道具に過ぎない。

授業中に姿勢が悪くてよく先生に怒られたりしたが、へっちゃらだった。「私は、きちんと授業を受けている。先生の話も聞いているし、自分の頭で考えてもいる。姿勢が悪い?何が悪いのだ」

しかし禅と出合い、私の考えは一変した

坐禅では、脚の組み方から、手の位置、体全体の姿勢まで、細かく決められている。そして、その姿勢を崩すことなく、静かに坐る。

釈尊の教え

私はテーラワーダ仏教のパーリ語経典を読んだが(原文ではなくドイツ語訳)、繰り返しが多くて非常に退屈であった。一方のチベット仏教は、魔術や呪術のようなものが多く、私には子供だましにしか思えなかった。

信じられる人は救われるかもしれないが、それはキリスト教と同じ論理である。釈尊が説いた教えをそのまま守ろうというテーラワーダ仏教のパーリ語経典も、「聖書にこう書いてあるからこれが真実だ」というキリスト教に似ていて、私は馴染めなかった。

実践の大切さ

むしろ、私には道元禅師の『正法眼蔵』のほうが、はるかに面白く感じられた。また、禅はドグマとしては何でもありで、とくにこだわりがないところも興味深かった。そして、禅は実践の大切さを説いている。(本からの引用は以上です。)

パウロの教え

確かに新約聖書の大半の手紙を書いたパウロは「信仰義認」と言って、「イエスを信じる信仰によって私たちの罪は赦されて、救いを得る。それはただ神様の恵みであって、私たちの行いによるのではない」と教えています。現在のキリスト教は、このパウロの教えたアンテオケ教会を起源としているので、「信仰義認」を強調する傾向があるのかもしれません。

ヤコブの教え

しかし、イエスの弟であり、イエスの直接の弟子たちを中心とするエルサレム教会の指導者であったヤコブは「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」(新約聖書ヤコブの手紙2章24節)と教えており、パウロの教えとは正反対であるように思います。このように聖書には正反対とも思える教えが記されています。

神様を中心にして生きる

確かにネルケ氏も言うように、西欧キリスト教はヤコブの教えより、パウロの教えを強調する傾向が強いのだろうと思います。ネルケ氏はそのような西欧化されたキリスト教に疑念を抱き、禅に惹かれたのだろうと思います。しかし、それは必ずしもイエスの教えを正しく反映している訳ではないということを知っていたら、また聖書との向き合い方も違っていたのかもしれません。しかし、大切なことはネルケ氏が言うように、実際の生活であり、私の言葉で言うなら、「神様を中心にして生きる」ということだと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は私たち日本人の生活に深い関係があると思います。西欧キリスト教の教典としてではなく、私たちが日本人として、神様を中心にして生きるために、聖書はとても参考になると思います。

新約聖書 マタイの福音書 10章26~33節

だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

神様の守り

おびただしい弟子たちの中から12人の使徒を選び、派遣する時に語られたイエスの言葉の続きです。一言で言えば、反対者を恐れるなということだろうと思います。神様の許しがなければ、一羽の雀でさえ落ちることはない。そのように神様が守っていることに信頼し、真実を曲げないで生きる。それが神様を中心にして生きるということだと思います。

わたしを人の前で認める

「わたしを人の前で認める」ことについてイエスは言っています。それは「メシヤとして認める」ということだと思いますが、ユダヤ人にとってそれは大変重要なことだったのだと思います。決してキリスト教徒であるかどうかという宗教の表明ということではないと私は思います。大切なことは、神様を中心にして生きること。それがイエスの教えだと私は思います。

いかがでしたか

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの人に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、お知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いします。

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■お知らせ■

2017年5月11日(木)19:00~20:00 泉パークタウンタピオ(仙台市泉区寺岡6丁目5-1)南館1階パークタウンスタイルで「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」と題してお話しいたします。入場無料、予約不要です。ぜひお出で下さい。詳しくはホームページのインフォメーションをご覧ください。