「イスラエル12部族に関する聖書預言と日本」というテーマに入る前に、どうしてそのようなことを考えるようになったのかご理解いただくために、これまでの私の信仰の歩みをまとめています。今日はその(6)です。
クリスチャンより日本人
欧米のキリスト教徒、その影響を受けた日本人のクリスチャンよりも、一般的な日本人の方がずっとイエスの教え、聖書の教えに適った生き方をしているのではないか。この日本人の高い国民性はイエスの教え、聖書の教えとは無関係ではないのではないか。そのように考えるようになった私が知ったのは、古代日本にイスラエル系渡来人があった可能性が高いということ、秦氏と呼ばれる豪族はイエスの教えを知っていたかもしれないということでした。
「日本人の信仰と聖書について考える会」を始める
つまり、日本人の高い国民性のルーツには、やはり聖書の信仰、イエスの教えがあったのではないかということです。それは多分に西欧文化の影響を受けたキリスト教とは違いますが、日本人は西欧キリスト教徒になることよりも、この日本の伝統の中に引き継がれて来た聖書の信仰、イエスの教えにしっかりと立つことが大切ではないか。それはクリスチャンになることではなく、日本人の心を取り戻すことではないか。そのことを日本人に伝えたいと考えて「日本人の信仰と聖書について考える会」を始めたのが今から2年くらい前のことになります。
クリスチャンになった痛み
こうして今振り返ってみると、私の真理探究の歩みは25年前、私がクリスチャンになった時に始まり、真理のためであれば仕方がないと考え、日本文化に背を向けるようにして歩み始めた私ですが、それは私にとって痛みでもありました。迫害というよりも、自分が正しいと思うことが理解されない痛み。理解されないと分かっていても、それを曲げる訳にはいかないという痛みです。
また新たな痛み
それでも、そういう思いを共有できる人たち、つまりクリスチャンがいたことも事実でした。そうやって私はクリスチャンの中でこの20年以上を生きて来た訳ですが、今度はキリスト教ではなく、むしろ日本人の中に引き継がれている聖書の信仰、イエスの教え、日本人の心が大切だということになれば、そのクリスチャンにも理解されないでしょう。これはまた新たな痛みでもあります。
それは必要な痛みだったのか
どうして私はこのような人生に導かれて来たのでしょうか。もともとクリスチャンにならなければ、このような痛みもなかったでしょう。でも、このようなところを通らなければ、「日本人と聖書」という視点を持つことはなかったでしょう。これは必要な痛みだったのでしょうか。
神様から与えらえる確信に基づいて生きる
いずれにしても、私には自分の心に与えられる確信を偽った生き方はできないでしょう。私はこのようにしか生きられなかったし、これからも生きていくのだろうと思います。どうして神様は私にこういう思いを与えて私を導いたのだろうか。その全ては私には分かりませんが、少し分かって来たところもあります。そのうちもっと分かって来るかもしれません。そのことについては次回もう少し書きたいと思います。
ここまで、私の信仰の歩みにお付き合いくださり、ありがとうございます。次回は、そんな私が今、どうして「イスラエル12部族に関する聖書預言と日本」というテーマに導かれたのか、この夏のある方との出会いについて、書きたいと思います。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の心です。キリスト教とは切り離して、日本人として聖書を読んでみてください。
新約聖書 マルコによる福音書 14章1~9節
さて、過越(すぎこし)と除酵(じょこう)との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕らえたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。彼らは、「祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起すかも知れない」と言っていた。
イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。
するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
殺人を正当化することはできない
たとえどんな主義主張があったとしても、何の罪もない人を策略を巡らして殺すことは神様の前に正当化することはできないと思います。全ては神様が支配していることを受け入れることが神様を中心にすることだと思います。たとえそれが教会の決議であろうと、主だったメンバーの合意であろうと、それをもって神様の意志だということで、殺人を正当化することはできないでしょう。それは神様を中心にすることではなく、自己中心だと思います。それは刑罰としての死刑とは違うと思います。
女は神様を中心にした
人のした行為を簡単にとやかく言わない方が良いと思います。1デナリは1万円とすれば、300万円ですから、確かに相当高価な香油だと思います。この女の名前は記されていません。この女はイエスの十字架の死を悼んで香油を注いだのかどうか私には分かりません。ただ、イエスのためにそうしたいと思ってしたことは事実でしょう。それは自分のためではありません。イエスのために「よい事」をしたのです。それは自分ではなく、神様を中心にした時に、そうしたいと思ったのでしょう。それは尊重されるべきではないでしょうか。
いかがでしたか
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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」