宗教とは何か

宗教は手段であって、目的ではない

先週、宗教は神様を中心にして生きるための1つの手段であって、目的ではないとこのブログでもお伝えしました。宗教が目的になると、人々の間に分裂が起こり、紛争の原因となってしまうと思います。目的は神様を中心として生きることであり、宗教はそのための1つの手段だとわきまえることが大切だと私は思います。

自己正当化と排他主義

宗教が目的となり、自分の宗教だけが正しく、他は間違っているということになると、それが自己正当化の理由となり、排他的になってしまうと思います。しかも、それは宗教的な確信を持った自己正当化となり、特定の宗教を持っていない人には考えられないほど排他的になってしまいます。その上、自分は正しいことをしているということで、罪悪感もなく、確信犯的な犯罪者となってしまうこともあると思います。

イエスは神様を中心にして生きるようにと教えた

新約聖書に記されているイエスのことばを読んで見ると、イエスは決してユダヤ教を廃止して、キリスト教という新しい宗教を始めたのではなく、神様を中心として生きるようにと教えたのだと私は思います。それは「神の国」と表現されていると思います。

一神教と多神教

一般的に一神教と多神教は相容れないと言われていますが、そんなことはないということも、このブログではお伝えしてきました。同じ一神教の宗教間でも、その教義の違いによって分裂、紛争がありますので、問題は一神教か多神教かということでもないと私は思います。そのような教義はそれぞれが大切にしたら良いと思いますが、どんな宗教であろうと、また特定の宗教を持っていなかったとしても、大切なことは神様の前に正しく生きることだと思います。それは良心によって判断できることだと思いますが、時に宗教の教義が良心より優先されるようになると問題が起こって来ると思います。

悪を正当化することは許されない

宗教と言って良いのかどうか分かりませんが、人間中心主義や自由主義といった新しい考え方も出て来て、保守的な宗教の価値観とぶつかることもあるようです。私はどんな教義や考え方がその背後にあったとしても、悪を正当化するような考え方には賛成できません。それは良心で判断できると思いますが、中には微妙な問題もあり、人によって判断が分かれるものもあるかもしれません。

健全な良心を大切にする

結局、一人ひとりの良心にかかっていると私は思います。もちろん、自分が正しいと思う信念に基づく行動であったとしても、法律は尊重されなければならないと思います。もちろん神様の前に正しいことが行われ、悪が行われないような法律や社会を目指す必要もあると思います。それは一人ひとりの良心にかかっていると思います。

大切なことは神様を中心にして生きること

誰も完全な人はいないと思います。神様の前に正しくなかったと気づいたら、謙虚に認めて、もう一度神様を中心にすることだと思います。人間の社会においては神様の正義が完全に行われている訳でもありませんが、そのために祈り、自分ができることはやって行かなければならないし、神様に委ねなければならない領域は委ねなければならないと思います。それも神様を中心に考えることが大切だと思います。

それでは今日も聖書の続きを読んで、神様を中心にしましょう。

新約聖書 使徒の働き 7章1~60節

大祭司は、「そのとおりか」と尋ねた。そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて、『あなたの土地とあなたの親戚を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました。

そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、ハランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが、ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。

それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。また神は次のようなことを話されました。『彼の子孫は外国に移り住み、四百年間、奴隷にされ、虐待される。』 そして、こう言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしがさばく。その後、彼らはのがれ出て、この所で、わたしを礼拝する。』

また神は、アブラハムに割礼の契約をお与えになりました。こうして、彼にイサクが生まれました。彼は八日目にイサクに割礼を施しました。それから、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブに十二人の族長が生まれました。族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。

しかし、神は彼とともにおられ、あらゆる患難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で、恵みと知恵をお与えになったので、パロは彼をエジプトと王の家全体を治める大臣に任じました。

ところが、エジプトとカナンとの全地にききんが起こり、大きな災難が襲って来たので、私たちの父祖たちには、食物がなくなりました。しかし、ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、初めに私たちの父祖たちを遣わしました。

二回目のとき、ヨセフは兄弟たちに、自分のことを打ち明け、ヨセフの家族のことがパロに明らかになりました。そこで、ヨセフは人をやって、父ヤコブと七十五人の全親族を呼び寄せました。

ヤコブはエジプトに下り、そこで彼も私たちの父祖たちも死にました。そしてシケムに運ばれ、かねてアブラハムがいくらかの金でシケムのハモルの子から買っておいた墓に葬られました。

神がアブラハムにお立てになった約束の時が近づくにしたがって、民はエジプトの中にふえ広がり、ヨセフのことを知らない別の王がエジプトの王位につくときまで続きました。この王は、私たちの同胞に対して策略を巡らし、私たちの父祖たちを苦しめて、幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました。

このようなときに、モーセが生まれたのです。彼は神の目にかなった、かわいらしい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、ついに捨てられたのをパロの娘が拾い上げ、自分の子として育てたのです。

モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。四十歳になったころ、モーセはその兄弟であるイスラエル人を、顧みる心を起こしました。そして、同胞のひとりが虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち倒して、乱暴されているその人の仕返しをしました。

彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。翌日彼は、兄弟たちが争っているところに現れ、和解させようとして、『あなたがたは、兄弟なのだ。それなのにどうしてお互いに傷つけ合っているのか』と言いました。

すると、隣人を傷つけていた者が、モーセを押しのけてこう言いました。『だれがあなたを、私たちの支配者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、私も殺す気か。』 このことばを聞いたモーセは、逃げてミデアンの地に身を寄せ、そこで男の子ふたりをもうけました。

四十年たったとき、御使いが、モーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現れました。その光景を見たモーセは驚いて、それをよく見ようとして近寄ったとき、主の御声が聞こえました。『わたしはあなたの父祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。』

そこで、モーセは震え上がり、見定める勇気もなくなりました。すると、主は彼にこう言われたのです。『あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っている所は聖なる地である。わたしは、確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下って来た。さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。』

『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現れた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです。

この人が、彼らを導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年間荒野で、不思議なわざとしるしを行いました。このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる』と言ったのです。

また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの父祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。

ところが、私たちの父祖たちは彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、『私たちに、先立って行く神々を作ってください。私たちをエジプトの地から導き出したモーセは、どうなったのかわかりませんから』とアロンに言いました。

そのころ彼らは子牛を作り、この偶像に供え物をささげ、彼らの手で作った物を楽しんでいました。そこで、神は彼らに背を向け、彼らが天の星に仕えるままにされました。預言者たちの書に書いてあるとおりです。

『イスラエルの家よ。あなたがたは
荒野にいた四十年の間に、
ほふられた獣と供え物とを、
わたしにささげたことがあったか。
あなたがたは、モロクの幕屋と
ロンパの神の星をかついでいた。
それらは、あなたがたが拝むために
作った偶像ではないか。
それゆえ、わたしは、あなたがたを
バビロンのかなたへ移す。』

私たちの父祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりに、造られていました。私たちの父祖たちは、この幕屋を次々に受け継いで、神が彼らの前から異邦人を追い払い、その領土を取らせてくださったときには、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ついにダビデの時代となりました。

ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。

『主は言われる。
天はわたしの王座、
地はわたしの足の足台である。
あなたがたは、どのような家を
わたしのために建てようとするのか。
わたしの休む所とは、どこか。
わたしの手が、これらのものを
みな、造ったのではないか。』

かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」 こう言って、眠りについた。

神様を中心にして生きること

ちょっと長くなってしまいましたが、ユダヤ教議会でのステパノの言葉を全文引用しました。これを読めば、旧約聖書に書いてあるイスラエルの歴史の全体を大まかに知ることができます。そこから分かることは、神様はイスラエルの人々に神様を中心として生きるように導いたのであって、決してユダヤ教という宗教を始めた訳ではなかったのではないでしょうか。それは、イスラエル民族を通して、全人類に神様を示すためだったのではないかと私は思います。

宗教をやることではない

また、ユダヤ教の指導者たちは宗教はやっていましたが、聖霊、つまり神様の霊に逆らっているとステパノは指摘しました。神様を中心にしていないということだと思います。彼らは逆上してステパノを殺してしまいましたが、それは正しいことであったとは言えないと思います。宗教ではなく、神様を中心にして生きることを聖書は示していると思います。