昨日に引き続き、堀井憲一郎氏の「キリスト教を絶対に取り込まない『日本文化』の見えない力」と題する記事の続きを紹介し、私の考えを書いてみたいと思います。
日本の文化の底流の力
クリスマスは「子供の日」として、宗教的でない行事として、日本に定着していく。どこまでも、ひとつの風俗でしかない、ということである。(中略)どう考えてもこれは、何となく興味を持っていない、というレベルのものではない。必死で興味を持たないようにしている、としか考えられない。(中略)それが、目に見えない日本の文化の底流の力である。
私はそれほど必死ではないように思います
以上のように堀井氏は書いています。しかし、私はそれほど日本人が必死になって、頑張ってキリスト教に興味を持たないようにしているとは思えません。私が思うのは、日本人にとっては、キリスト教に限らず、宗教というものはその程度のものなのではないでしょうか。それが「日本の文化の底流の力」だと言えば、そうなのかもしれません。「とても強い文化的な力である」と堀井氏は書いていますが、確かにそうかもしれません。堀井氏の文章を続けます。
誰もまともに相手をしていない事象
たとえば、日本のクリスマスに関する学術的な研究はほとんど存在しないと堀井氏は指摘していらっしゃいます。お祭りというのは、明治以降、学術研究の対象となっていたが、クリスマスはそういう扱いを受けていない。(中略)何というか、言い方は悪いが「誰もまともに相手をしていない事象」なのである。と堀井氏は書いていらっしゃいます。
日本人のキリスト教、宗教に対する考え方
私は、この堀井氏のご指摘は日本人のキリスト教、宗教に対する姿を良く表しているように思います。日本人にとってはキリスト教を含め、宗教というのは、その程度のものだということだと思います。それを大人が本気になってやれば、「いい加減にしろ」、「ほどほどにしとけ」ということになるのだと思います。
日本人にとってキリスト教、宗教より大事なもの
日本人にとっては、キリスト教、宗教よりも、もっと大事なものがあるということではないかと私は思っています。それは日本人としての高い倫理観であり、精神性であり、良識であり、常識と呼ばれるようなものではないでしょうか。そして、それは太古の昔から神様を中心とすることによってもたらされた日本の文化だと私は思っています。
神様を中心とした生活をしましょう
だから、私は神様を中心とした生活を思い起こしていただくために、この「日本人の信仰と聖書について考える会」を始めました。それは宗教をやることではないということを知っていただきたいと思っています。私利私欲ではない高潔な人生は神様を中心とすることによってもたらされたものであり、何か特定の宗教によらない、このような高い倫理観は日本人特有のものだと私は思います。
それでは今日も聖書の続きを読んで、神様に思いを向けましょう。そこに日本人としての高潔な生き方があると思います。
新約聖書 ルカの福音書23章39~43節
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているのではないか。
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
ひとりは自己中心のままでした
イエスの両側にはそれぞれ十字架につけられた犯罪人がいました。そのひとりはイエスに悪口を言いました。彼は十字架につけられてなお、自分のことしか考えていませんでした。しかし、もうひとりはそうではありませんでした。彼は自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだと言いました。
もうひとりは神様を中心にしました
そして、イエスは人となった神様であることを知って、彼は神様を中心としたのだと思います。十字架につけられ、間もなく死を迎えるという、その時でも自己中心を止めて神様を中心とすることはできますし、また、神様を中心とせずに、自分を中心にしたままでいることもできるということだと思います。心の中心に神様を迎えた時、イエスは「きょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われたのだと思います。本人もその平安を得たのではないかと思います。
どんな状況においても、神様を中心にすることはできると思います。これは全く宗教の問題ではないと思います。